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【佐古賢一・さこ けんいち】バスケットボール・アイシンシーホース (2010年5月3日〜5月7日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストはバスケットボール・アイシンシーホースで活躍中の佐古賢一選手でした。
今なお現役として日本バスケ界を支える“ミスターバスケットボール”佐古賢一選手にたくさんのお話を伺いました。

http://www.sakoken.net/
佐古賢一選手オフィシャルサイト



【佐古賢一・さこ けんいち】
神奈川県出身、1970年生まれ39才。
小学校3年生よりバスケットボールを始め、北陸高校3年時にインターハイで優勝。
中央大学3年時に全日本代表初選出。
1993年にいすゞ自動車へ入団、チームの中心として5度の優勝を経験。
2002年、アイシンシーホースへの移籍とともにプロ宣言。
今年もで40歳を迎えるが現役続行中。





【佐古賢一選手とバスケとの出会いは?】
小学校三年生からミニバスケットに入ったんですが、小学校時代は野球と両立だったんです。
実は野球の方がすごく好きで、というのも当時一緒に遊んでいた友達がみんな野球の方に行っていて僕もどうしても野球をする方が好きだったんです。
バスケを始めた一番の理由は父親がバスケをやっていたからなんです、良く父親の草バスケに連れて行ってもらっていてそれでバスケに興味を持ったんです。
それで小学校は両立だったんですが、中学校がたまたま野球部が無い中学校だったんです。
野球を続けるならば、電車かバスをつかってシニアのチームでやるか、と誘ってもらっていたんですけど、電車とかバスに乗って毎日行くのも大変かなと思い、小学校時代からやっていたバスケット部を選らんだんです。
 〜じゃあもし中学校に野球部があれば?
そうですね、野球の方に進んだ可能性が高いと思います。
 〜中学時代はいかがでしたか?
自分の中ではバスケットに何かすごい自信があってやっていたという訳ではなく、とにかく負けず嫌いで試合があれば勝ちたいなという一心でやっていた記憶しかないですね。
それでも自分が中学三年生の時になった時には神奈川県で1敗もしなかったですね。
 〜それでは全国大会にも出場されたんでしょうか?
それが全国大会の一歩手前の関東大会ではじめての敗北があって行けなかったんです。
そこが初めての分岐点というか「世の中にはいっぱい上手い人もいるし大きい人もいる」というところを味わったんです。
 〜そして高校は福井県の北陸高校へ進まれたんですよね?
自分の父親が「本気でやるんだったら神奈川県でろ」と。
ちょっと“やんちゃ”な時期だったんで(笑)神奈川に残ると友達の影響が出るというのがあって中途半端になるので家を出なさい、と言われて福井に行く決意をしました。


【佐古賢一選手にとって一番の努力は?】
僕がバスケしてきた中で一番つらかったのが高校時代なんです。
中学校を卒業し親元を離れて高校に入り、一年生から厳しい上下関係の中、寮生活・学校生活を送らなくてはならない、
やはりあれがあったからこそ、今の自分がどんな状況にも立ち向かっていける、そういうモノを作れたんだと思います。
 〜神奈川から福井と言うと風景もまったく違いますよね?
周りは田んぼばっかりですからね、自然はすごいんですけどその自然が自分の寂しさに追い打ちをかけるような、春から夏にかけてはカエルの鳴き声とかが聞こえる夜に一年生10人ぐらいで帰っていたのですがみんな泣きながら帰って行ったこともあります。
中には寮を逃げる者もいました、だけど僕は中学から高校に入る時に決意してきているので帰る所が無いじゃないですか。
だから他の人間が逃げるというのがわかっていても自分はそこでぐっと我慢して堪えられました。
 〜どのような決意をされたんでしょうか?
中学は強い学校だったんですが、全国大会に1回も行った事が無かったんです。
関東大会で必ず負けていて、全国というモノを知りたかったんです。
日本の中で自分と同じ年でどれだけうまい人間がいるんだろう?とそこに挑戦する気持ちはすごく持っていましたね。
とにかく一年生の最初のころというのは「今日頑張る」1日1日を乗り越えていく事に精いっぱいでした、そこがあったからこそ2年生3年生になった時に自分の思いが明確になりました。


【佐古賢一選手にとって一番の壁・挫折は?】
僕はオリンピック予選を4回経験しているんです。
始めて代表に入ったのは20歳だったんですけど、僕は最初オリンピックには行けるものだろうと思っていたんです。
それが「アジアで優勝しないとオリンピックに行けない」という事を始めてそこで知ったのですが、それでもとにかく自分は「オリンピックに行ける人間だ」という変な自信もありましたし「アジアで勝てないわけがない」と思いながらずーっとやってきたんですけど、運が無いのか毎回あと一歩で行けなかったんです、そういう意味では僕にとっての最大の壁はオリンピックだったと思います。
 〜オリンピックへの思いというのは昔からあったものなんですか?
いや、最初に代表には行った時は「オリンピックに行きたいな」とはあまり思ってはいなくて、その時チームには最年少で入っていたんですけどキャプテンがバスケ界で有名な陸川章さんで、陸川さんに「お前に日本のオリンピック出場を託す」と言われたんです「お前なら行けるから」と言われてそこからですね、最初のオリンピック予選を3位で終わって自分の中で「オレが日本をオリンピックに連れて行かなければ」と責任感が芽生えてからオリンピックにはこだわりましたね。
 〜NBAの誘いもあって、それを断ってまでオリンピック挑戦にこだわり続けたとお聞きしましたが
そうですね、でもその頃は日本のスポーツ選手が海外に渡ってというのはない時代で、野球の野茂投手がメジャーリーグに行く行かないという時期であの野茂投手でもブーイングというか批判というか色々言われていた時期だったんですけど、自分もちょうどNBAのチームに「トライアウトキャンプに来ないか」とメモを渡され誘われた時にちょうど結婚したんですよ。
自分の嫁さんのお腹に子供もいてそういうのも全てひっくるめた中で、色んな葛藤があったんですけど日本の代表でプレーすることにこだわった、というのが本音の所なんです。
今思えば挑戦しても良かったかなと思いますけど、自分の明確な目標がオリンピック一本というモノがあったので日本に残る決意をしました。


【佐古賢一選手にとっての思い出の一曲・マイメモリーソングは?】
中学校から高校に上がる時、やんちゃしていた時期なんですが、その頃仲間と一緒に歌っていたレベッカフレンズです。
この曲を聴くとやはり中学時代の色んな事を思い出して、みんなが新横浜まで見送りに来てくれた事を鮮明に今でも蘇ります。
やはり涙も出ますし、自分を奮い立たせてくれますし、そういう意味では僕にとって大切な歌なのかなと思います。
当時中学生で、その後の事をあまり想像できていなかったのでみんなとは一生のお別れになるのかな?という感覚もすごく強かったんですよ。
そういうかくも強かったので、中学の卒業式も周りの目をあまり気にせずわんわん泣いてしまいましたし苦労をかけた先生たちにも自分の本当の気持ちというのですかね、「ありがとう」という言葉が素直に言えたりしましたね。
 〜当時やんちゃをしていたという事ですが、バスケの道に行けたというのは何が大きかったんですか?
友達の存在だったと思います、友達と一緒にいる時に「僕も高校には行かないよ」という話をしていたんですよ、でもみんなが「お前は高校に行ってバスケットの道があるんだから、オレらとは違うんだから」という事をその時に言ってくれたんですよ。
「お前がやりたい事はいつになってもできるけど、お前がここでバスケをやめたらバスケは一生できねーぞ」と言ってくれたんです、そうやって僕の背中を押してくれたのは今でも本当に自分にとって最高の宝ものですし、良い思い出です。


【佐古賢一選手の今後の大きな目標は?】
オリンピックを夢見続けてずっと追ってきましたが、今年40歳を迎えると言う事で体力的にオリンピックというところは直接自分が目指す所ではなくなってきているのかな、と思って、じゃあどうしようかなって考えた時に日本の今の若手や子供たちがいつかオリンピックに連れて行ってくれるだろう、と、その為には日本のバスケというモノがもっとメジャーにならなくてはならないしその為にはプロ化というモノが絶対だと思うんですよ。バスケットに今興味が無い人たちにとっても批判も賛同も得られるような団体になって行かないといけないと思いますし、そういう厳しいし夢見れるような環境がスポーツ選手にとっては一番大切なのかな、と思ってその為に自分はまだ現役ではありますけど1つの歯車としてバスケに1章携わっていきたいなと思っています。
もうなんだかんだ言って40年近くオリンピックに出てないわけですから1年でも早く日本チームがオリンピックのバスケットのコートに立っているという姿が僕も見たいのでそういう意味では一生バスケには携わっていきたいなと思っています。
自分が成しえなかった大きな夢を、次世代の選手たちが必ずかなえてくれると信じています!

 〜プライベートのお話も伺いたいのですが、お子様が4人いらっしゃると言う事ですが家庭ではどんなパパなんですか?
そうですね、家族にとってはダメなパパかもわからないですね、家を空けることも多いですし今は2年間単身で名古屋に住んでいますからね。
とにかく子供に対してはストレートに接したいな、と思っていますし、子供にとっても接しやすい友達みたいな存在であればなと思ってるんです。
その為に家では名前で呼んでもらってるんです、お父さんではなく「賢ちゃん」と呼ばれているんです。
周りからは「バスケの佐古なんだから、ちゃんとお父さんお母さんと呼ばせるようにしろ」と言われたりもしたんですけど、まぁ家は家ですから(笑)
 〜家族が一番の応援団ですね
そうですね、子供も一番上は中学三年生なんですけど、ずっと僕のバスケを見てもらっているので。
良い時も悪い時も変わらず家族に見てもらうと言うのが僕のスタンスなので、年を取ってバックアップとして出場時間が少なくなった今も近くの試合は応援に来てもらっているんですけどね。
 〜家族の言葉で一番印象に残っている言葉などはありますか?
僕がアキレス腱を切った4〜5年前の事なんですけど、バスケをやめようかなという選択が一回あったのですけど、その時に「辞めないで」と言ってくれた事ですかね。
他にも娘がバスケ部に入ったり、自分を喜ばせような事をしたり言ったりしてくれるので、そこが自分にとって力になってリハビリを乗り越えて1日でも長く現役を続けようと決意をしましたね。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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