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【越和宏・こしかずひろ】スケルトン元日本代表(2010年6月14日〜6月18日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストは冬季オリンピックに3大会連続で出場されたスケルトンの越和宏さんでした。
日本のスケルトンの第一人者の越さんに貴重なお話をたっぷり伺いました。


【越和宏・こしかずひろ】
長野県出身、1964年生まれ現在45歳
大学時代にボブスレーと出会い、社会人2年目でボブスレーナショナルチーム入り。
しかし、アルベールビルオリンピックの代表選考で外れた事をきっかけにスケルトンに転向。
その後は日本のスケルトン第一人者として、
2002年ソルトレィクシティ、2006年トリノ、今年開催されたバンクーバーとオリンピックに3大会連続で出場。
バンクーバーオリンピック後はスケルトンの第一線からは“卒業”
現在は、新たな人生のスタート地点に立っています。

越和宏さん所属チームオフィシャルホームページ
http://www.systex-skeletonclub.com/




【バンクーバーオリンピックお疲れさまでした、現役生活は引退と言う事でしょうか?】
引退と言われると寂しさがありますので、一つやり終えたという事で「卒業」と言う事にしていただいたら僕も嬉しいかなと思っているんです。
 〜バンクーバーオリンピックを終えてどのような気持ちでしたか?
正直に言いますと、もう一回バンクーバーオリンピックをやりなおさせてくれないかな、と思っています。
やっぱり充実感と言うか満足感と言うか達成感と言うか、あまり無かったんですね。
ですので、あれは夢の世界という事で明後日くらいから開会式にならないかな、なんて毎日思っています(笑)
 〜今週来週は越さんにじっくりお話を伺いたいのですが、まずはスケルトンについてお教えください
簡単に説明させていただくと冬のソリ競技の一つです。ソリ競技にはボブスレー、リュージュ、そしてこのスケルトンがあります、このソリ競技は今は全て一つの競技会場で行えるようになっていて、私たちのスケルトンは頭を先にして腹ばいでソリに乗ってほとんどむき出しの体で大体120キロ前後で滑っていく競技です。
 〜地面からどのくらいの高さ何でしょうか?
我々競技者は空気抵抗を限りなく少なくするために頭を低くします、ですのでおそらく5センチあるかないかだと思います。
ただヘルメットをしているので怪我をするという事は無いと思います。
 〜見えている景色と言うのはどのようなものなのでしょうか?
目の前で写真が一枚づつペラペラぺラとめくるように映し出されているというか、変わっていくというかんじですね。
ただバンクーバーオリンピックは高速のコースでして時速が140キロを超えたんですね、これは別世界でした、この時は針の穴に糸を通すじゃないですか、針の穴の中からモノを見ているような感覚でした、ホントにモノが小さく見えましたね。


【越さんとスケルトンとの出会いは?】
僕はもう45才になりまして、約18年前で27歳から28差になる頃にこのスケルトンに挑戦し始めたんです。
 〜その前は何をやられていたんですか?
その前は同じソリ競技なんですが、ボブスレーと言う競技を一生懸命やっていました。
とにかく僕は小さなころから有名になりたいと思っていて「誰もやっていないスポーツならこんな僕でも世界一になれるのではないか?」そして「有名になれるのではないか?」と思って始めたのがボブスレーだったんです。
それで大学に進学すると言う時なんですが、大学のパンフレットを取り寄せたんです、そこに「唯一ボブスレー部があります」と、さらに「数名のオリンピック選手を出しています」というキャッチフレーズが載っていましてそれを見た時「これしかない、日の丸付けてオリンピックに行ったらエラい事になるな〜」と思ったのがきっかけで、それで大学一年生から初めました。
 〜夢を抱いて入部されたボブスレー部はいかがでしたか?
実はいろいろ事情がありまして、入学と同時にボブスレー部に入っていたらよかったんですが友達と遊んでしまったんです、それでボブスレー部に入るのが一カ月遅れてしまったんです。
一カ月遅れるとトレーニングについていくのもキツイですし、先輩後輩の上下関係も厳しくてボブスレー部を辞めようと決断したんです。
でも辞める際に「お医者さんに行ったらこのままキツイトレーニングをしていたら将来的に体に影響が出るから辞めなさいと言われてしまったんです」と嘘の理由を言ってしまったんです。
それで部を辞めるんですけど、辞めてしばらくはまた友達と遊んじゃったんですね、遊んでいるうちに罪悪感もすごく芽生えまして大学4年間その罪悪感と戦いながら暮らしまして、それでこの罪悪感は大学に在籍している間に解消しないと社会に出た時にまともな大人になれないと本気で思ったんです。
そこで勇気を出して「あの時は嘘の理由を言っていました、もう一度ボブスレー部に戻してください」と頭を下げに行ったんです、でも「そんな理由につき合っていられない」と言われてそれからは何度も「お願いします」「ダメだ」の繰り返しがあって、最後にボブスレー部の監督さんが選手に聞いて練習だけなら一緒に良いよという許可が出てようやく部に戻ったんです。
でもそれがあったからこそ、それ以後の人生で辛い事があっても簡単に逃げない諦めない、そこで必ず立ち止まって「俺はどっちに行くんだ?」と自問自答してやってきたきっかけがそこにあったから多分45才までスケルトンと言う競技でしたけどそこで戦い続けられたきっかけを与えてくれたと思っています。


【大学卒業後は?】
社会人になっていくわけですけど、僕はただ働いてお金を得ると言う事では仕事を続けていくことはできないなと思ったんですね。
やっぱり夢を実現するために仕事をしてお金を得て、その夢にお金を使っていくと言う感じで思わないと働けないと思ったんです。
それで社会に出てようやく本気でボブスレーというものをオリンピックを目指してやろうと決めていったんですね、だから仕事をしながらも本当に必死で練習をしました。
 〜ボブスレーに励まれていた中どういった形でスケルトンと出会ったのでしょうか?
1992年にフランスで行われたアルベールビルオリンピックと言うのがあってそこに向けてボブスレーで本気で練習をしていたんですけれども、残念ながら国内の選考会で落ちてしまってそこでの夢は終わってしまったんですね。
でもまだ世界一になりたいとか有名になりたいと言う夢はまだまだ消えませんでしたので「じゃあ次はどうやってやろうかな」と、でも27の年齢ですから色々考えていたんです。
その時にスケルトンと言う競技は日本には競技人口が0でしたから、僕が始めたら僕が第一人者になれると、第一人者と言う事は努力なしで日の丸付けて海外に出られる(笑)と言う事になりますから。
ただボブスレーをやっている当時からスケルトンと言う競技を間近で見ていたんです、連盟の方からも「日本にはスケルトンの選手がいないからお前たちどうだ?やらないか?」という誘いはあったんです、でもその時は物凄い否定的だったんですが、次の夢を求めるときに「コレしかない」と思ったんです。
 〜日本でまだ誰もやっていないパイオニアとしての苦労もあったと思うのですけど
まったく一人の状況になったので最初は通訳もいませんなので語学が大変でしたね。
例えば「次の滑走順番は日本の越だ」と言うのもちゃんと自分で聞こえなくてはいけない、数字が読めないと自分の滑走タイムが何秒だとかわかりません。
今でも思い出しますけど成田空港で「旅の英会話」という本を買いまして飛行機の中で必死に読んで、さらにマネージャーもいませんから次はこの空港に行ってレンタカー借りて、その次はホテルだ、と、とにかく必死で全部の事をやっていましたね。


【そしていよいよスケルトンでオリンピックに挑戦されるんですね】
そうです、四方を山に囲まれたところで生まれ育った人間にとってはオリンピックは本当に夢だったんです。
 〜一番オリンピックを強く意識されたのはいつごろでしょうか?
一番最初は、ボブスレーでオリンピックを狙って必死にやると言う事を、自分で勝手にそう思っていたのですが“罪を償う”と言う感覚でやっていた時ですかね、大学生の時に嘘をついて一度辞めてしまった事がずーっと心の奥底にあったので。
有名になりたい、強くなりたいという思いより、オリンピックに出ると言う事が自分への戒めみたいになっていたかもしれないですね。
でもそれがボブスレーと言う競技では実現できなくてスケルトンと言う競技をやり始めた時にはオリンピック種目にスケルトンは無くやがてオリンピック種目になると言われてたんです。
しかし長野オリンピックの時も採用されるだろうと言われていて採用されませんでした、僕はその時33歳ぐらいでしたのでアスリートとしてはピークをとっくに過ぎている年齢でしたのでもうオリンピックは無理だろうと、それで僕のスケルトン人生も夢の夢で終わってしまうかなと思っていたんです。
 〜それがその後3度のオリンピックに出場される事になるんですよね
ちょっと諦めかけた時にじゃあどうするかと考え「じゃあ世界一になって競技人生を終えるしかない」と思っていた、今でも覚えています1999年の10月2日に僕のカナダの友人から「越、スケルトンが2002年のソルトレイクシティから採用されると決まったぞ」という情報が先に入って来て、その時は嬉しかったですね。でもその時無職だったんですけどね(笑)
また自分の心にオリンピックへの灯がつき始めた瞬間ですね。


【オリンピックへの努力について伺いたいのですが】
選手だけが金メダルを獲ろうと思って頑張っていてもなかなか良い結果には結びつかないんですね、その為には組織です。
監督でありコーチでありトレーナーであり色んな人たちが役割を十二分に全うして金メダルであったり順位になってくると言う事があるんです。
しかし選手一人だけが必死になってやらざるを得ない部分が日本のスケルトンにはあって、やっぱりどうしても僕以上の経験を持つスタッフが誰もいないという事からどうしても僕が先頭を切っていかなくてはならない、そういう部分では常にアスリートでありながらマネンジメントもしなければならないコーディネートもしないとならない、本当にいろんな意味でオールラウンダーにならなければと言う意味では、もうこれ以上、ここで限界だと言う事は考えないで「まだやれるんだ」「もっとやらなければいけないんだ」とそういう思いでここまで来ました。
 〜パイオニアとしての苦労もありながら念願叶って37歳で初めてオリンピックの舞台に出られたときと言うのは、どんなお気持ちでした?
そうですね、やはり夢に思い続けたオリンピックですから「ようやくこのオリンピックの舞台に立てた」と言う事は思いましたけどそれは瞬間的なものです、とにかく僕はこのチャンス、世界一になれる、しかも有名になれる、記録にも記憶にも残ると。
そしても僕自身の調子もある程度トップレベルにあったんで、良いチャンスではあったんですね。
 〜結果は見事に8位入賞でした
入賞なんですけどね、惨敗でしたね。
8位という成績はソリ競技界・ソリ連盟にとっては良い成績だったと思いますけど越和宏個人にとっては惨敗でしたね。
ホントに今でも覚えていますけど競技日が2週間あってほとんど快晴だったんですね、でも僕らの競技日だけが大粒の雪が降ったんです、次の日は日本晴れと言われるぐらいの青空で、もう大粒の雪と日本晴れの青空の色だけは忘れられないですね。
最後は運と言うものも味方してくれないと結果は出ないという事を痛感した出来事です。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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