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【中田久美・なかだくみ】バレーボール元全日本女子(2010年8月16日〜8月20日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストはバレーボール元全日本女子の中田久美さんでした。
3度のオリンピックに出場し、現在は指導者として全日本監督を目指し日々努力している中田さんに貴重なお話をたっぷりを伺いました。




【中田久美・なかだくみ】バレーボール元全日本女子
東京都出身1965年生まれ
1980年に15歳全日本に選出され天才少女と呼ばれ、
1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得、
その後もソウル、バルセロナと3大会連続でオリンピックに出場します。
現役引退後もバレーと深くかかわり、今年4月までイタリアでコーチを経験
日本バレー界の為に日々奔走しています





【まずは近況を伺いたいのですが、中田さんはコーチ留学でイタリアに渡り、春に帰ってきたばかりなんですよね?】
2シーズン、イタリアの方に出かけましてアシスタントコーチという名目だったのですけれども非常に面白い時間を過ごせました。
 〜イタリアを選ばれたのに理由はあったのでしょうか?
海外の選手は身長が大きいと思われるのですが、実はイタリアは身長はそんなに大きくないんですよ。
それでも常にトップを走り続けているイタリアの強さとは一体何なのかな?と思ってイタリアを選んだんです。
 〜言葉が違う国にコーチとして行かれるのは難しかったのでは?
最初は全然言葉もわからなかったのですけれども、学校に通ったりして聞く事が出来るようになり、ちょっとづつ自分でも話せるようになり、と言う感じで上達はしていきました。
けど、言葉とか関係なしに3回くらいキレましたね(笑)スタッフにペットボトルを投げつけたりして(笑)最初のうちは文化の違いとかもあったので。
 〜それでも指導はイタリア語で行われたんですよね?
全部イタリア語で、とにかく単語を並べて、後は自分でやって見せてと言う感じですね。
でも怒る時は日本語だったんですけど(笑)それに選手たちも日本語を覚えようとインターネットで調べてきてくれたり、あと最初は選手と同じ部屋で暮らしていたんですけどその選手がやはり日本語を覚えようとしてくれて部屋中に日本語とイタリア語の単語を貼ってくれて、非常に楽しかったですよ。
 〜イタリアの選手はいかがでしたか?
日本の選手たちは自分の意志とか考えを言うと引かれる事もあるじゃないですか、でもイタリアは前に出ないと相手にされなくなるのでどんどん自己主張をする事が大事なんです、なのでチームもそういう選手たちの集団でしたのでとても刺激的でした。
 〜ちなみにイタリアでのプライベートの息抜きは?
毎日体育館に行っていたので、外に出たり旅行をしていたという事は無いのですが、刺繍のクロスステッチってあるじゃないですか、あの刺繍がすごく好きでアレをずーっとやっていましたね。


【中田久美さんがバレーボールと出会われたきっかけは?】
とても小さい時の事で、母がママさんバレーをやっていましてそれに着いて行ってボール拾いとかをしていたんです。それで母はチームのエーススパイカーで凄くカッコよく見えて「私もお母さんみたいになりたい!」と思ったのが一番最初のきっかけですね。
それが小学校に入る前ぐらいなんですが、小学校に入ってからはなぜか水泳を始めまして、その水泳に挫折して中学生の時に何かスポーツをやらなきゃいけないと思ってバスケットにしようかバレーにしようか迷ったんですけど母が「バスケットやるならバレーボールでしょ」と言う事で地元の中学でバレー部に入りました。
 〜意外と遅いスタートなんですね
他の全日本クラスの選手にに比べると遅い方ですね。
私は苦しい事とか練習が大嫌いで何をやっても長続きしない子だったんです、スポーツも一通りやったのですが全然ダメでしたからね。
でも身長も子供のころから大きい方だったので、何か頑張るものが無ければいけないなと思ってはいて、最終的にはバレーボールでしたね。
 〜その中学の時大きな出会いがあったんですよね?
中学の1年から2年になる時に山田重雄先生がやっていた英才教育のバレーボールチームの募集の広告を見まして自ら親の反対を押し切ってテストを受けに行ったのです。
でもそんなに技術的なものは無かったのですがたまたま受かることができたんです、全国から700人ぐらいテストを受けに来ていて合格者が7人ぐらい、ホントにその中に入る事が出来て幸運だと思いましたね。
 〜そのチームに行きたいと言う思った動機は何だったのですか?
元々バレーボールが好きだったと言う事と初めて子供心に心が揺れ動いたんですね。
広告を見た時に、なんか自分の生きる場所がここにあるんではないか?と感じて思い切って行ってみようかなとなったんです。人生にピンとくる感覚と言うポッと火が着いたとかそんな感じですね。


【中田久美さんにとって最大の努力は?】
「やり続ける事」だと思います、現役時代全日本のセッターになりました。なるだけなら簡単になれたと思うんですけど、やはりそれを守り続けるとかやり続ける時に自分の中で向上していく事が現役生活を振り返ってみると一番大変だった事だと思いますし、それが今の自分を支えているものだと思うので「コレ」と言う1つは無いのですがバレー人生そのものが一番の努力だと思います。
 〜3度のオリンピックに出場されました、それだけ長い間第一線で活躍されてきたと言う事ですからね
その間も、やはり楽しい事だけではないですし、いくらでもポジションを狙っている選手はいるわけですからその中で周りの人を納得させる精神力だったり技術的なものを自分のものにするというのは非常に大きなエネルギーのいる事だと思います。
 〜その中で一番頑張ったと思う瞬間はいつ頃でしょうか?
やはりケガした時にバレーボールがやりたくてもできない状況の中で、でもやめられない自分の立場があったんです、後は周りの人たちの期待だったり、日の丸を背負う責任であったり、そういうものを乗り越えてもう一度やらなければならないと言うのが一番大変だったと思います。
 〜全日本と言うのはやはり大切なものでしたか?
バレーボールはもちろん自分の為にやっていたのですけれども、それでもプレーをするという事は応援してくださる皆さんの夢も背負っている事と思うんですね。そういう人たちの期待にこたえなければならないと言う大きなプレッシャーであったりするのですが、それは凄いやりがいであったりするので非常にありがたい経験をさせていただいたなと思います。
 〜2度目の出場となったソウルオリンピックは恩師の山田重雄監督がチームを率いたんですよね
その前にケガをしまして、結果から言えば4位で女子バレーとして初めてメダルを逃したオリンピックになったんです。そういう中でアスリートとしてはいけない事だと思うのですけど出る事で満足してしまったと言うのが今振り返って非常に悔いの残るオリンピックでしたね。
 〜次のバルセロナでは?
ずーっと私はコートに立ち戦ってきた選手なんですけれども、その陰には沢山私の事を支えてくれた人や控えの選手達がいて、そうやって私をサポートしてくれた人の為にも最後まで戦い続けなければいけない!という気持ちだけで戦っていました。
本当に体はボロボロだったのですが最後まで自分の仕事を全うしなければいけないと言う思いがあったので、そういった意味では一番膝が痛いオリンピックでした(笑)
膝はとにかく痛くて試合が終わったら歩けませんでした、会場から一歩外を出るとトレーナーにおんぶしてもらって控室まで帰って人の手を借りて着替えさせてもらったりと言う状態が続いていたので、でもコートの中でそういう弱い姿を見せるわけにはいかないので。
 〜その中でもプレーが出来た力の源は一体何だったのでしょうか?
やはり世界一になりたいと言う思いが一番大きかったんじゃないかなと思います。


【他にバレーボール人生で努力と言うと何が思い出されますか?】
14歳からバレーボールを始めて15歳で全日本に選ばれてしまって、それが中学3年の頃でその後高校に行かず実業団に入ってバレーをすると決めた時に与えられたポジションがセッターだったんですね。
それまでずっとアタッカーで、15歳で全日本に選ばれた時もアタッカーとして選ばれたので、その時初めてセッターをやったんです。
本当にある日突然監督から「明日からセッターをやりなさい」と言われて、でもセッターのゲームの組み立てとか全然わからなくて「これは大変なことになったぞ」と思いまして、そこで体育館の隅に私専用のコートを作ってもらってそこで毎日何千本もトスを上げていました。
そうすると体育館の床が桜の木でちょっと特殊な素材だったのですが、毎日同じ場所でトスを上げ続けていたら汗が落ちてそれが床のシミになったんです。
若かったからできたと思うんですけど、それぐらいあの時は必死に毎日やっていましたね。
 〜凄い努力ですね、でもセッターとアタッカーって全く別のポジションですよね?
どちらかと言うとアタッカーは花形ポジションでセッターは地味じゃないですか、性格からいったら合わないわけですよ(笑)だから納得いかなかったんですけど、でもやはり経験を積んでいくうちにセッターとしての面白さゲームを作る難しさながわかって、今まで自分が想像していたバレーボールと違うモノが見え始めて非常に追及し甲斐があるというか新しい魅力いを感じました。でも最初は全然そういう風に思わなかったんですけどね(笑)
 〜でも中田さんの活躍でセッターに対するイメージもだいぶ変わったと思うのですが?
日本の女子バレーの東京オリンピックからの歴代セッターの中でおそらく私が一番身長が高いんですよ。
でも世界と戦うために大型セッターでなければいけないという監督の考えもありそこに私が当てはまったんですね。
それで監督も何とかものにしなければいけないという感じ指導されたので、それはそれは厳しかったですね(笑)
 〜セッターの醍醐味と言うと何でしょうか?
セッターって自分で点を獲る事は出来ないんですよ、誰かに決めてもらわなければなりません。ただ人を動かせるという面白さが非常に魅力的で、またネットをはさんで向こう側には相手チームがいるわけでその人たちを“騙していく”“裏をかいていく”そういう事が面白いですね。
なので、その為に相手選手や審判をずーっと観察していたので、おそらく嫌な選手に写っていたと思いますよ(笑)
でもゲームを組み立てる上で相手が今どういうチーム状態なのかとか、作戦タイムを取った時に監督が誰に注意を与えているのかと言う事をじっくり見る事で「あの選手が調子が悪いんだな」「あの選手を次はマークすればいいんだな」と予測を立てる上での情報の一つになるんです。監督からやれと言われたわけではないのですが自分の中で非常に重要性を感じていましたので観察し続けていましたね。


【中田久美さんと言えばモデルにも挑戦されていましたが、きっかけは何だったのでしょうか?】
お声をかけて下さった方が何人かいらっしゃいまして、それでやってみようかなと言う軽い気持ちですね。
 〜モデルになるにあたってすごくダイエットもされたんですよね?
モデル事務所の方から「あと5キロ痩せなくては駄目ね」と言われて結局5日で落としました、何をそんなに維持になったのか分からないんですけど考えられないようなメチャクチャダイエットをしましたね。
でも一つ発見した事は何十年も腕立てやウエイトトレーニングをやっている人間は、モデルのような体形なれないってことに(笑)それでこんなに体を壊してまでやる必要は無いのではないかと思って辞めました。
 〜違う分野にチャレンジされて気付いた事はありましたか?
結局、努力をするとか極めるという事はジャンルが違っても一緒なんだなと思いました。
モデル事務所に言っていた時に私全部のオーディションに言っていたんです、落とされる事もあればショーに出してもらえる事もあるのですが、そこで「同じだな」って気付いて、それだったら今まで人生賭けてやってきたバレーボールをさらに極めた方が自分らしいのかな、と言う風に思ってまたバレーボールと言う風になりました。
 〜モデル時代の楽しかった思い出、何かありますか?
ウェディングドレスのショーだったのですけど、1回のショーで3〜4着着なくてはいけなかったんです。慣れてないじゃないですか、そしたら汗をかいてしまって後ろのファスナーが上がらなくなってしまったんですよ、そしたらフィッティングしてくれている人も汗だくになってしまって自分の順番も回ってくるし、焦っちゃって焦っちゃって、とにかくハプニングなんですけどそういった思い出しか浮かばないですね(笑)
あとは一日で3回くらいショーをやらなければいけない時があって、ハードすぎて家に帰ったら一日で3.5キロ落ちていたんですよ、ちょうど仙台だったので帰りの電車の中で牛タン弁当を食べて帰ってきた事を覚えていますね(笑)

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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