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【中田久美・なかだくみ】バレーボール元全日本女子(2010年8月23日〜8月27日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストはバレーボール元全日本女子の中田久美さんでした。
3度のオリンピックに出場し、現在は指導者として全日本監督を目指し日々努力している中田さんに貴重なお話をたっぷりを伺いました。


【中田久美・なかだくみ】バレーボール元全日本女子
東京都出身1965年生まれ
1980年に15歳全日本に選出され天才少女と呼ばれ、
1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得、
その後もソウル、バルセロナと3大会連続でオリンピックに出場します。
現役引退後もバレーと深くかかわり、今年4月までイタリアでコーチを経験
日本バレー界の為に日々奔走しています



【中田さんにとって人生で一番大きな出会いは何でしょうか?】
やはり山田重雄先生に出会えた事が人生で一番大きかったと思います。
 〜14才の時に入団された英才教育チームを率いられ、ソウルでも指揮を獲られた山田重雄監督、どんなことを教わりましたか?
技術的な事はほとんど教わっていないんですよ、それよりも人として例えば「挨拶がしっかりできなければならない」とか食事の仕方とか日常生活の事が凄い厳しかったんです。
そういう事がきちんとできていないと、いくらプレーが上手であっても先生は絶対に使わなかったんですね。
 〜それはなぜだと思いましたか?
私は15才で高校に行かずに親元を離れてバレー界に入った人間なので、普通に家庭で教えてくれるような事を親から教わっていないわけですよね、そういう責任を山田先生はとても感じていたんじゃないかと思います。
やはり全日本の選手は全ての方から憧れであったり尊敬されなければならないので、服装であったり普段の生活態度がキチっとしなければならないと言うのがあったのかと思います。
 〜今もそれは役に立っていますか?
社会的にも、そして結局バレーボールは一人で戦う事が出来ないスポーツで相手の気持ちであったり味方の気持ちを常に理解して組み立てていくスポーツなので、そういった一般常識や社会生活やそれを理解することは競技的にも必要な部分だったとも思います。
 〜山田先生は厳しい方でしたか?
厳しかったですよ、殴られたりは無かったのですが、そういった人としてだったり選手としてダメだったり道を外れそうになるとキッチリ叱られましたね。
 〜山田先生との一番の思い出は何でしょうか?
「お前は俺の言う事を何にも聞かない!」と言われた事ですね(笑)本当はそんなこと全然ないんですけど、でもいくら山田先生から言われた事でも自分が納得しないと動かないと言うのはありましたけど。
あと、いくら叱られてもそれでへこんでプレーが出来なくなると言う事は無く、逆にそれをエネルギーに変えてプレーするので、先生としてはそれは扱いやすい選手だったかと思います。
 〜指導者として山田先生の教えで活きている事はありますか?
時代も流れて環境も変わりどんどん変化していく世の中の中で、やはり挨拶であったり人としてであったり、日の丸を背負う覚悟はちゃんと次の世代につなげていかないといけない事だと思いますし、それは非常に大事なことだと思いますので伝えていけたらと思います。


【中田久美さんがバレーボール人生でぶつかった大きな壁、挫折は?】
やはりケガですね、この壁はちょっと大きかったですね。
ちょうど20才の時で右ヒザの靭帯をほとんど全部損傷しまして、お医者さんから「再起不能」と、はっきり言われましたのでそれはちょっとへこみましたね。
「日常生活を出来るようになったら完治と思ってください」と言われるぐらいのケガで、なかなかそれを受け入れる事が出来ませんでしたね。
 〜それでもその後2大会のオリンピックに出場されました、ご自身の中で「復活するぞ!」と言う思いが強かったのでしょうか?
最初は全くそういう風に思えなかったんです「これで終わっていくのかな」というマイナス思考の考えであったりしたのですけど、ケガをしてバレーボールについて考える時間が多くなりバレーボールが自分にとってどれだけ大きなものだったのかと言う事が分かってきて「だったらもう一回」と思えるようになりました。
それからは、先生は「無理」と言うのですけど実際にやるのは私なので私は「出来る!」と言う風に思っていたので、結構エネルギーを出しましたね。
日常生活が出来るようになるまで1年半と言われたのですが、それではオリンピックに間に合わないので10カ月に縮めてリハビリも自分で組んでコツコツとやりましたね。
 〜復帰したコートはいかがでしたか?
今でもはっきり覚えているのですが、公式戦だったのですけど感覚の誤差があってそれに凄いショックを受けて「これ以上は無理なのかな?」と思った記憶がありますね。
 〜ブランクと言うのは相当大変なものだったのですね?
筋力的にも、そしてゲーム感覚を戻すのも大変ですし、そんな中でやらなければならないと言う中で色々と考えましたね。
 〜リハビリの中で支えになったものは何でしょうか?
自分を信じる事ですね、もう親でも友達でもチームメートでも無くてとにかく自分を信じるしかない、それだけですね。なので非常に孤独でしたね。
 〜そこからの復活、診察した先生も驚かれたでしょうね?
実は、その後のオリンピックのチームドクターは私のオペしてくれた先生で、「いつでも対応できるように」とついてきてくださって、でも先生はすぐドクターストップをかけるんですよ(笑)
でも「もうやめなさい」と言っても「私は出るから」と言って「痛み止めの注射を打ってください」と言って試合に行っていましたね。


【中田久美さんがバレーボールをやめたいと思った瞬間はありますか?】
毎日辞めたいと思っていました(笑)あまりにも練習がきつくて平均して一日10時間は練習して休みの日も無いですし、遠征ですとか試合も非常に多かったのでそれが苦しくて苦しくて「明日は絶対に辞めてやる!」と思いながら続けていましたね。
常に世界を視野に練習していましたし、監督からの要求も非常に高かったんですよ、そんなに言われてすぐにクリアできるものではないですし、日々予習復習と言った感じでしたね。
 〜それでも辞めなかった一番の理由は?
多分辞める事は凄い簡単な事だと思うんです、自分の意志一つで終わるわけですから、でもそれを本当にやってしまっていいのかなという弱さと言うか勇気も無くて「じゃあもう一日だけ頑張ってみようかな」と言った感じですね。
あとは山田先生に負けたくない、と言う気持ちもあったと思います。
 〜その中でも一番辞めたかった出来事はありますか?
一番思うのは、朝に雑巾で体育館の床拭きがあるんですよ、体育館が結構広くてそれがランニングが終わった後に床拭きをするんですけどそれがきつくて足がパンパンでホントにきつくてそれをやっている時に「私の人生後これを何回拭けば終わるんだろうな」とか考えて、私だけではないんですけどね。でも、その時が一番「家に帰りたいな」と思う瞬間でしたね。
 〜逆にバレーをやっていて楽しかった、と言う瞬間は?
これが不思議と無いですね。楽しいとか嬉しいとかいうのはあまりなかったんですけど、自分を表現できる場所を見つけるのは中々難しいじゃないですかそういう事に巡り合えた事は人生にとって非常に幸せな事だとは思うのですが、なので現役生活自体はなかなか楽しいと思える事では無かったですね。
仕事ですからね、ただし追求のし甲斐は本当にありました。


【中田久美さんにとってのマイメモリーソングは】
ダリル・ホール&ジョン・オーツプライベートアイズです。これはファンの方がくれたカセットテープがあって、当時のソ連に1か月半の遠征があって、その時私のジャンプの最高到達点が2メートル86センチの所まで届いたんですがそれで山田先生が「3メートル・バスケットゴールのリングの位置までまで届いたらレギュラーにしてやる、その一か月半の遠征でそこまでジャンプ力を伸ばせ」と言われて、ロシアに行き練習や試合の合間にずーっとランニングをしていた時にずっと聞いていました、まだ10代の頃で一ヵ月半でどうしたらいいものかと思っていましたね。
 〜実際に到達点はどこまで伸びたのでしょうか?
届きましたよ、3メートル5センチまで。とにかくレギュラーになりたい一心ですね。まぁレギュラーになると洗濯をしなくて良いので「人の洗濯ものをやりたくない!」という思いもありましたけど(笑)
 〜そういった遠征の際は良く音楽をお聞きになられていたのでしょうか?
18〜9までは学校の勉強もあったので音楽を聞いたりはしていなかったのですけど、選手時代の後半はファンの方がプレゼントしてくれたりしてそれをよく聴いていましたね。
 〜イタリアにコーチ留学をされていましたが、イタリアでは日本語が恋しくなって日本語の歌を聞いたりとかはありましたか?
結構聞いていましたね、今はパソコンもあるのでインターネットで日本の曲を聞けるので。
 〜日本食が恋しくなった事はありましたか?
3食自炊で作っていたのでお米も日本から持って行きましたし、カレーも日本から持って行ったので。
でもイタリアは野菜がすごくおいしいので日本と同じような食材はあまりないのですがそれを煮たり焼いたり蒸したりして食べていました。
 〜特に美味しかったものは?
ホウレンソウが日本のものとはちょっと違うんですが、それが非常に美味しくて、そのホウレンソウにニンニクのスライスを入れて鍋に入れて塩を振って蒸すだけなんですがそれだけでも凄く美味しかったですね。


【中田久美さんの今後の大きな目標は?】
バレーボールを通して育ててもらった人間なので、次世代の子供達とかにバレーボールを通してスポーツの面白さを伝えていきたいなとは思っています。
 〜今まさに、指導者としてステップを歩まれていっルわけですよね。
私は幸か不幸かわかりませんけれども、指導者のイメージが山田先生しかないんですよね。
やはり山田先生は素晴らしい指導者であったと思いますし、その先生と比べますと私はまだまだ勉強不足で、少しでも山田先生のような指導者になるべく自分自身も努力していかないといけないなと思います。
 〜同じ指導者になってみて改めて山田先生のどのような所が凄いと思われますか?
一言ではとても言えないのですけど、この間部屋で過去に山田先生が書いた世界と戦うための資料を見たのですけど、ホントに凄いんです。
細かくて先見の明があって、戦略戦術と言うのがここまであの時代で考えていたんだなと言うのを凄く感じて、例えば今はデータバレーと言うものがソフトを使ってデジタル化されているのですけれども、それを山田先生はアナログで手書きで全部で作って私たちに提供してきたわけですから、そう考えると山田先生の頭の中はどこを見ていたのかな?と思うぐらいで。なので今は山田先生は亡くなってしまいましたけれども、今だったら山田先生が女子バレーが強くなる為に何を考えるのか?と言うのをぜひ聞いてみたかったですね。
 〜女子バレーの女性監督は過去に1人しかいらっしゃいません
生沼スミエさんがアジア大会で監督をやってくださいましたけれども、生沼さんは私がジュニアの時に大変お世話になっていた方でそれ以来ありません。
別に女性がやってもいいと思うのですけれども、子育てとかどうしてもバレー界から離れる方が多いと思うので。
これは自分がやりたくて出来るものではないと思うのですけれども、チャンスがあり自分が出来ると思ったら私はやると思います。
 〜やはりその時の目標はメダルを獲るという事でしょうか?
そうですね、私が果たせなかった夢と言うものもありますし、バレーを一生懸命頑張っている選手達にオリンピックの素晴らしさだったりとかメダルを獲る楽しさを経験させて上げたいなと言う気持ちはあります。
 〜きっと厳しくもいらっしゃると思いますが、でもついていけば間違いないという感じがします!
多分相当厳しいと思います(笑)でもそういう風に選手達に信頼されるような指導者になりたいな、と言う風に思います。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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