リポビタンDプレゼンツ スポーツリアルトーク

今週のゲストは?
前回のゲスト バックナンバー

【本田武史・ほんだたけし】プロフィギュアスケーター(2010年9月6日〜9月10日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストはプロフィギュアスケーターの本田武史さんでした。
日本男子フュギュアスケート躍進のきっかけを作った本田さんにお話を伺います。



【本田武史・ほんだたけし】プロフィギュアスケーター
福島県出身1981年生まれ29才。
1996年14歳史上最年少で全日本選手権を制覇すると、
長野、ソルトレイクシティと2大会連続ででオリンピックに出場するなど日本のエースとして活躍。
2006年に選手生活を引退しプロに転向。
現在はアイスショー出演、フィギュアスケート解説、指導者と、今なおフィギュアスケート界で活躍中。




【まずは近況を伺いたいのですが、夏でもお忙しいのでしょうか?】
実は夏が一番忙しいんですよ、アマチュアの選手は3月の世界選手権でシーズンが終わるのですがプロの場合はそこからショーが始まったり指導者としては選手たちの育成と言う形で忙しくなるんですよ。
今トレーニングをしておかないと冬に間に合わないので、シーズンオフと言われているこの夏の期間中にどれだけトレーニングをしたかによってシーズンの結果に繋がってくるので今が一番追い込み時期ですね。
 〜本田さんは現在プロスケーターでいらっしゃられますが、アマチュアとの一番の違いは何でしょうか?
やはり試合に出るか出ないかのちがいですね。「私プロになります」と言ったらもうプロスケーターなんですけどプロになったからにはスポットライトやらいろんな音楽の表現を勉強しなければならないですし、お客さんが見に来てくれるので「じゃあ何をして楽しませて行かなければいけないのか?」と言う事も考えなければいけないので、プロとして色んな事を考えて日々進歩していかなければいけないんだなと思います。
 〜プロになって一番の発見になった事は何でしょうか?
僕は昔から滑っているのはスローな曲が多くてそういうイメージがついているのですけど、ヒップホップであったり早い曲「まさかこんな曲で滑れるの?」と言う曲でも挑戦しなければいけなかったので、新しい自分を発見したな、と言う事ですね。
 〜ヒップホップでも滑られているんですね!?
グループナンバーと言っていろんな方と滑ったりするナンバーがあるので、その中でヒップホップもやったりする事もあるのでどのジャンルでも滑れるスケーターでないとプロとして魅せれるスケーターにはなれないですね。
コスチュームでも「こんな色着るの?」と言った衣装もあります。
 〜プロとして現在はどんな思いで滑られていますか?
アマチュアの時から応援してくれた方が今でもショーを見に来てくれる、だからこそもっといい演技をしなければならないと思いましたね。
自分はもっとこういうスケーターでもあるんだよ、と見せ奈けらばいけないと言う事も感じています、まだ4年目なのでまだまだこれからなんですけど。


【本田武史さんがフィギュアスケートと出会われたきっかけは?】
地元に会った福島県郡山市のリンクで兄と一緒にスピードスケートをはじめて、その練習しているリンクでフィギュアの選手たちがジャンプをやったりスピンをしているのを見て、そっちをやりたくなったんです。それでフィギュアに移りました
 〜今でこそ男子も大活躍していますが、当時は男子選手の数はそんなに多くなかったのでは?
そうですね、当時はフィギュアスケートをしていると言うのが恥ずかしかったです、「あのキラキラしたの着てるの」って言われましたし(笑)
それでもジャンプできるのが魅力で、1回転だったのが2回転に、2回転だったのが3回転になったという喜びがその場で味わえるじゃないですか、それを試合で出来るようになったらもっと嬉しい。
スピードスケートでタイムを競うと言うのは僕には合わなかったので、達成感がほしかったんです。
 〜最初にジャンプが飛べた時の感動って覚えていますか?
実は1回転はスピードスケートを履いている時に、フィギュアの選手を真似て1回転を飛んでみたり後ろ向きに滑っていたりしたので特にこれと言うのは覚えていないんですよ。
でもそれだけフィギュアに移りたかったと言うのはハッキリ覚えています。
それに1つ上の兄もスピードスケートをやっていて毎日競争で、兄の方が1つ上で絶対にかなう訳が無いのでどうしても違うモノがやりたいと言うのもあったんです。


【本田武史さんにとって最大の努力は?】
僕は中学生になる時に、スケートをやりたいから福島県から宮城県に国内で留学していいか?と聞いたんです。
でも家の祖父が「家族離れて暮らすのは絶対にダメだ」と反対されてしまったんです。
なので僕は「中学の3年間だけ、結果が残らなかったら僕はスケートをやめる」と説得して出てきたんです。
こうして出てきた3年間は必死でしたね、自分がやると言ったのでやるしかないな、と。
 〜中1の時からそれぐらいの覚悟だったんですね、それはやはりオリンピックを目指してと言う事なのでしょうか?
小さいころからオリンピックに出たいと言う気持ちはありましたね。
 〜中学での生活はいかがでしたか?
毎日スケートでしたね、朝から晩までスケートの事を考えていて、毎日学校が終わってからリンクに行って5時間ぐらい滑っていました。
 〜中学3年生になるまでにご自身が望んでいた結果は得られましたか?
僕にとって毎日の目標を立てていたんですよ、みんなで並んでスケーティングをやっている時に「今日はこの人を抜こう」「明日はこの人を抜こう」と。
そして気付いたらトップに行けるようになっていました。
とにかく小さな目標を毎日立ててクリアしていきました、「今日はもう一回転増やしていこう」とか、毎日新しい事を考えられるんで良かったと思います。
 〜中学3年生の時には全日本選手権に優勝されました!おじい様は試合を見られていましたか?
試合を見ていたと思うのですけど、結果を残した事で祖父は何も言わなくなりましたね。


【他に努力と言うと何が思い浮かびますか?】
中学3年生の時に史上最年少で全日本チャンピオンになってから、今度はオリンピックにむけてどうしなければならないか、となった時ですね。
本当に全日本チャンピオンになれると思っていなかったので逆にそれが良かったのかなとも思っているんです。
なので、最初はなにも考えていなくて優勝した時も「優勝しちゃったんだ」と言う感じだったので「次は?」と言われてもピンとこなかったんです。
ですが、その後オリンピックと言うモノが見えた瞬間が自分にとって一番怖かったなというモノがあります、それでオリンピックってどういう場所なんだろう?と考えた時に「最大限の努力をして、そこで最高の演技が出来る場所にしよう」と目標設定をしたんです。
 〜初のオリンピクは長野、日本で開催されましたがこちらはいかがでしたか?
その直前にアメリカ人コーチに変わって、言葉も通じないし不安定な時期だったのですが、とにかくオリンピックの舞台に立ちたいと言う気持ちが強かったですし「どんな場所なんだろう?」と言う思いで出場しました。
実際に出場した長野は「凄いな!」と言う思いで、聖火が灯いた時は鳥肌が立ちましたし、選手村の設備も充実していたので。
長野では選手村に入らず近くにアパートを借りたのですが選手村に入っておけばよかったという思いもあります、次のソルトレークシティの時は選手村に入って出場したのですが、選手村で他の選手たちと同じ気持ちを共有できるという安心感があったんです。
 〜その後カナダに拠点を移されましたがきっかけは?
仲の良かった選手が「カナダで練習しないか」と言ってくれたんです、そのリンクはとにかく世界で活躍する選手が沢山いてその中で練習すれば毎日戦えるのではないか?と思って、中学の頃に毎日「誰かより上に行きたい!」と思っていたような気持ちで取り組めるのではないかと思ってカナダに移ったんです。
 〜その直後の4大陸選手権では見事優勝を果たされました!
その時世界チャンピオンのエルビス・ストイコが一緒に滑っていたのですが僕は勝てると思っていなかったので2番で良いやと言う気持ちだったんです、しかし1番と出たのでそれを見て「どうしよう、勝っちゃった」と言う感じでしたね。
 〜そんなに数カ月で変わるものなんですね
一緒に滑っている仲間たちも盛り上げてくれましたし、精神的に不安定な時も支えてくれたので。
それに凄い楽しかったんです練習も、とにかく自分に合っていて、毎日がジャンプ大会と言った感じで、こいつが跳んだから僕も跳ばなきゃ!と言う感じで良いライバルが沢山いましたね。


【本田武史さんは指導者として後進の指導に当たられていますが、教えられる側から教える側になってみて戸惑いなどはありませんでしたか?】
まずは日本で生活している事ですね、実はまさか日本に帰ってくるとは思わなかったんです、現役引退後もずっとカナダに住むと思っていたのでカナダのコーチングライセンスも勉強していましたし全く日本に帰ってくる気が無かったんですよ。9年間カナダに住んでいましたしカナダが大好きだったんです。
しかし、高橋大輔のコーチの       先生が関西大学のリンクが出来てコーチを探している、と言うので「やってみないか?」と言われたのがきっかけで戻ってきました。
日本に戻ってコーチを始めるとき、コーチをした事がないのでどう教えていいかがわからないんですよね、その前に日本語が出てこなかったので(笑)ホントに英語で考えて、それを日本語にして言っていたんですけどポロっと出る言葉が英語だったりしてそれが苦労した所ではあります。
 〜指導法もカナダの影響が強いのでしょうか?
カナダ時代に子供たちにデモンストレーターとして見本を見せる時があったんです、その時に僕のコーチが他のコーチに教え方を披露していたのですがそれをちょっとづつ思い出して「こういう風に言われていたな、こういう風にやっていたな」と前のコーチのやり方を取り入れていきました。
ただコーチをするようになって自分で思ったのは、選手の時は「なんでこんな事毎日言われなきゃいけないんだ」と思っていた事を今の選手達に僕は言っているんです。
タイミングであったり顔の向きであったり自分では治してるつもりでも治ってない時があるんです、でも言われるとイライラするじゃないですか、けど同じくらい言っているんです。
 〜指導者として一番気を付けている事は何でしょうか?
やはり調子がいい時も悪い時もあるので、どうやって毎日いい思いでリンクに上がれるか注意しています。
オンとオフをはっきりさせています、引きずって欲しくないんですよね、なのでリンクに立ったら指導者として厳しく接しますがリンクから一歩上がった瞬間にスケートの事は全く忘れます失敗しようが、調子が悪いイライラしている、そういった事は関係なく1人の人間として見るようにしています。
 〜関西大学では、バンクーバーオリンピックで銅メダルを獲得された高橋大輔選手の指導もされていたんですよね?
彼のジャンプだけをメインとして見ていたんですけど、やっぱり彼は芸術家と言うか自分が決めた事は凄くキッチリやるんですけど逆に抜けているところもあるな、という感じでしたね。
ジャンプに対してもこだわりがあるのかな、と言う感じで入っていくカーブであったり体の角度であったり「こっちの方がいいと思うよ」と言っても「いや、違う」みたいなやり取りもありましたね。
 〜現地での高橋選手の演技はいかがでしたか?
練習の内容、追い込み方、目つき、ジャンプのタイミングであったり、言う事はないなと思っていました。
自信を持って滑っているのが見えましたし、でも4回転だけが不安だなと言うのがあって4回転だけは失敗してしまいましたが、けどその後のジャンプに関しては失敗しないだろうという安心感がありました。
 〜教え子のメダルに関れたわけですけどいかがでしたか?
正直、自分が取りたかったなと言うのがありますけどね(笑)
自分もオリンピックの最終グループでメダル争いをした緊張感と言うのは自分も味わった事があるので、あのの中で滑り切れたのは凄いなと思います。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
On Air Time
ニッポン放送
(月)〜(金)17:32〜17:37