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【青柳勧・あおやぎかん】水球日本代表(2010年10月4日〜10月8日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストは水球日本代表の青柳勧選手です。
日本人として初めてイタリア・セリエAでプレーした実績を持つ青柳選手に貴重なお話を伺いました。



【青柳勧・あおやぎかん】水球日本代表
京都府出身、1980年生まれで現在30歳
府立鳥羽高校、筑波大学を経て、2004年にイタリアセリエA2のベルガモとプロ契約。
セリエAで3年間プレー、その後モンテネグロで2年プレーし昨年日本に帰国。
今年7月に発足した「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」では、
選手兼任監督としてチームを引っ張っています。



【青柳勧選手と水球との出会いはいつでしょうか?】
小学3年生の時です。
元々は体を強くするために両親から水泳を勧められ始めたのですが、水泳で級を上げていくうちに一番最後に出会った先生と言うのが水球のコーチをされている先生で、僕は周りの中で多少泳ぎが速かったものでその先生から「水球に来ないか?」と誘ってもらったのがきっかけです。
 〜その時水球と言うのはイメージ出来ましたか?
全くわかりませんでした、その先生と仲が良かったといのがあって「次の日に来い」と言われて行ってみたら「なんじゃこりゃ?」と言う状態でしたね(笑)
 〜競泳の方に未練はありませんでしたか?
泳ぐのは得意でして競泳でもいけると言った感じだったのですけど、毎日普通に泳いでいるのかにいきなりボールを入れられて「明日からボールで遊んでいいよ」と言われれば飴を出されたという状態で、すぐにのめり込みましたね。
 〜水球の最初の印象はいかがでしたか?
最初は、実は幼すぎてどうだったのかがよく覚えていないんですよ、とりあえず入って一カ月は「新人」と呼ばれるんです、名前で呼んで頂けなくてそれが苦痛でたまらなかったのだけは覚えていますけど。
そういう上下関係が小学生の頃からしっかりあって、そこでもまれている間に全国大会にしっかり出るような感じでしたね。
 〜そこからは水球一直線に進まれた感じでしょうか?
実はそうではなくて、小学校の頃から進学校に通っていたのですが学業との両立が出来なくて中学1年生から3年生の時まで一度水球を辞めているんです。
成績が悪くて「親に勉強をしろ」と言われて辞めさせられたのですけど、実はその辞めた一週間後に原因不明の腹痛にあいまして倒れこんで動けなくなり病院に運ばれてしまったんです。そこでお医者さんに言われたのが「過剰なストレスで体が動けなくなっています」と言われたんです。
大好きだった水球をいきなり取り上げられた事でそうなってしまい親がビックリしまして、しかし水球のスクールへは家から片道一時間かけて通っていたので家のすぐ近く5分ぐらいの所にスイミングスクールがあったのでそこで競泳をすればと勧められまして競泳の方に転向したんです。
 〜それほどまでに水球が好きだったんですね
僕のイメージではそれほど好きだったイメージはないのですけど、とにかく体が動かなくなってしまったので自分が思うよりも体が反応してしまったみたいですね。
 〜その後水球に戻られたのはいつですか?
それで中学3年間を競泳で過ごしまして高校に進学する時に、学業で行くか、競泳で行くか、水球で行くか、と選択肢があったのですがやはり僕は水球で行くと決めて水球の名門である京都府立鳥羽高校に進学する事に決めたんです。


【青柳勧選手にとって最大の努力と言うとなんでしょうか?】
高い目標を持って日々自分の信念を曲げずに継続して行う事ですね。
具体的には、数年前で言うと海外でプロ選手になるという事で「水球で飯を食う」という事が自分の目標だったので高校生大学生の頃はその準備を着々と進めていきました。
 〜水球のプロというのは日本ではかなり難しいのですね
今でもまだ日本では「水球で飯を食う」という事が定着していない事です、それがどういう事を意味するかというと「大学を卒業しても水球で飯を食っていけないから何のために僕は頑張っているのか?」と次のジュニア世代の目標が無いという事になってしまいます。
 〜青柳選手はそこで海外に選択肢を求めたわけですね
僕は運が良く若い時から日本代表に入り海外に視野を向ける事が出来たので「誰もできない事をやってやろう」という思いが強くなって大学に入った時から海外に言ってプロ選手になることしか考えていなかったですね。
 〜そして筑波大学在学中にスペイン留学を果たし在学中にスペインリーグでもプレーされました、夢の海外でのプレーはいかがでしたか?
本当に楽しくて、それで僕は「大学を辞めてここで勝負をし続ける」と言ったんですが両親を始め日本で応援して下さった方たち全員に猛反対を受けまして、大学を卒業してからまた行けと無理やり引きもどされまして、卒業してから改めて海外へ出たという状況です。
 〜大学時代はスペインに行かれましたがスペインでは水球はメジャーだったのでしょうか?
当時のスペインというのはオリンピックにも優勝しましたしまさに世界一と言った感じでそれは凄いリーグでしたね、しかも一年目から一部リーグでかなりいい条件で契約させてもらい良い経験を一年間積ませてもらいました。
 〜大学卒業後はイタリアとモンテネグロでプレーされました
大学卒業後またスペインに戻るという選択肢もあったのですがスペインにはもう多くに日本人が行かれていたという経緯があったので、まだ日本人では誰も挑戦していなかったイタリアのセリエAに挑戦しました。
セリエAは当時世界最高峰のリーグでしたし、誰もやっていな事に挑戦しさらに自分の存在価値を上げようという思いがあってセリエAに挑戦しました。
 〜そこで得たものは何だったのでしょうか?
得たものは物凄く多いですね、人生観もそうですし、水球の知識もそうですし、僕たちは代理人がいなかったので言葉を覚えて自分で自分を売り込んで営業しなければいけなかったのでチームとの交渉術まで様々な事を学びました。


【青柳勧選手にとって最大の壁・挫折と言うと?】
自分が日本人選手であったという事です、これは海外でプレーしている時は常にその思いはありました。
と、言うのもヨーロッパのリーグで日本人がプレーする事はどういう事かというと、日本のプロ野球に野球が盛んではないヨーロッパの選手が来るみたいなもので、僕が「ヨーロッパでプレーをしたいので僕のプレーを見てくれ」と売り込んだところで日本人というだけでプールにも入れてもらえず誰も相手にしてくれないんです。
チームと契約してプレーできたとしてもジュニア選手にも舐められますし、自分のプレーを見せつけて周囲を黙らせるという事を日々やって行かなければならないので大変でした。逆に言うとどれだけいいプレーを重ねても一本シュートミスをすると「あいつは日本人だからダメだ」となり、それが例えばハンガリーやセルビアやクロアチアなど水球が盛んな国の選手がはしても「まぁ彼なら次は決めてくれるだろう」と物凄い差が出るんです。
一つのプレーでダメというハンコを押され、そのハンコを押された事が噂で広がり次の良い契約が取れなかったり、選手同志のライバル争いやチーム内でのポジションが確立できなくなったりするんですね。
なのでチームメートを黙らすには試合だけではなく日々の練習が一番なので、日々の練習でも気を抜が抜けないと言う感じでプールに行くと気が抜ける場所が無いんですね、これは本当にしんどくてトップリーグに行けばいくほどしんどかったですね。
 〜そのセリエAでも力を見せつけてきてトップリーグに上がられたんですね?
それが面白い所で力を見せつけるだけではトップリーグには上がれないんですね、僕が物凄く経験した事があって、一年目で2部リーグに入りそこで得点を取って全てのタイトルを総なめにしたので2年目は1部のリーグから色んなオファーがあるだろうな、と待っていたのですがオファーの数は0だったんですよ。
それはなぜかと言うと実力だけ見せてもトップリーグには行けないんです、自分から情報発信をして「僕は移籍を考えている」とか「僕は違うチームに行きたいんだ」という事を言わない限り周りのチームも僕が何を考えているのかわからないので、情報を出来るだけ早く入手してそして自分もできるだけ早く発信しないといけないんです。
なので敵チームの選手とも交流を持たないといけないですし、色んなチームの監督とも面識を持って人脈を作らないといけません、かと言って自分が移籍したいと言う事を言い過ぎると自分のチームから裏切り者のように扱われるわけでこの微妙なバランスが物凄く重要でしたね。
だから一企業マンと一緒で夜飲みに行ったりする事も大切でそういう時に色々情報交換があって酔っ払いながらも「お前来年どうするんだ?」と「〜〜〜のチームに行きたいんだけど」「じゃあ俺が話を付けてやるよ」みたいな感じで事が回っていく事があるんです、それを最初は解らずに自分の実力を見せつければ何とかなる、と思っていたので2年間2部でプレーしました。
2年目にはそれがいい教訓となって3年目には1部リーグでプレーする事が出来たので、こういう事が重要なんだなと物凄く感じましたね。


【青柳勧選手にとって思い出の一曲・マイメモリーソングは何でしょうか?】
THE虎舞竜のロードです。
海外ではよく外国人選手もいますし色んな国の選手がいますがパーティや飲みに行った際には最後はみんな興奮して大騒ぎになるんですね、それでみんなで歌い始めるのですがその時に僕は歌はよくわからないので聞いていたりすると「お前も日本の歌で良いから歌え」と言われるんです。
実は私はあまり日本の曲は聞かないので、こういう有名な曲しか歌えないので良く歌っていたんです。でも外国人選手も喜んで全員がまねして歌ってくれたりしましたね。
なので今でも外国人選手の友達が来ると日本語がわからないのでいきなりこの曲を人前で歌ったりするので僕がちょっと恥ずかしい、みたいな事もありました(笑)
 〜オフの日もそういう選手同士の交流は多かったのでしょうか?
僕は向こうに行けば外国人選手になるので地元の選手がずいぶん支えてくれました、なのでオフになると良く誘っていろんなところに連れて行ってくれたりしましたね。
 〜思い出の場所などは?
ラスト2年間はモンテネグロというアドリア海をはさんでイタリアと反対側の国でプレーをしたのですが海辺の町で家の前が海だったんです、なので海岸を歩いて海沿いにあるカフェテリアに入ってゆっくり過ごしたりしていましたね。
日本に帰ってきてからも恋しくて、あの海辺の町の真っ青の空の下でまたゆっくりコーヒーを飲んで過ごしたいなという思いもあります。
 〜水球というと水中の格闘技とも言われる激しいスポーツですがオフの時はのんびりと過ごされていたんですね
そうですね、出来るだけリラックスして過ごすようにはしていましたね。
 〜海外の水球はさらに激しいと言った感じだったのでしょうか?
僕が185センチあったのですが、2メートル級の選手がそろっていたので僕でも小さいという感じで体力的にも何をするにも大変でしたね。
水球は接触プレーが多いのですが殴られて顔面を陥没骨折させられる事もありました。とにかくスケールが全て違いましたね、トレーニングのスケールも違いましたし、食べる量も違いましたし、それこそ怪我のスケールも違いました(笑)

 〜海外生活で日本食などが恋しくなった事は?
僕は結構ストイックにやるタイプなので日本食などほとんど口にしませんでした、「恋しくて日本食が食べたいなんて思う自分は弱い自分だ」と事をずっと思っていたので。
でもイタリアとスペインの料理は良かったのですがモンテネグロは酷くて肉をおかずに肉を食うみたいな感じで全て肉中心なんですね、まさに肉食でみんな体がでかくて風邪をひいた時も苦しくて食べられないのにレストランに連れて行ってもらってお粥みたいなものを食べさせてもらえるのかと思ったらステーキを出されて「お前風邪ひいてるんだったらこのステーキ食べれば治るよ」と言った感じでしたから(笑)
帰国して一年たちましたけど今だに焼き肉を食べに行こうとは思いませんから、肉はこりごりです(笑)


【青柳勧選手にとって今後の大きな目標は?】
僕の目標としてはオリンピックに出場して日本の水球界の発展の為に何か貢献できればと思っています。
 〜1984年のロサンゼルス以来出場が遠のいているんですよね
アジアでは1枠しか出場枠がないんです、しかし日本はいつも2位のポジションにいていつも2点差3点差という感じで負けてまして手が届かないと言う感じではなくもう少しのところにいるので、そこを超えたいですね。
 〜そんな日本を強くするために青柳さんは帰国されて新しくクラブチームを作られたんですよね
海外でやっていて思ったのは、1人がどれだけうまくなっても1人がどれだけ気持ちが高ぶっても、やはり組織・チームで動かないと物事というのは変えられないと言う事なんです。
なので自分が日本の水球に出来ることというのは、海外での活動をやめて日本に帰って日本水球界全体が強くなる体制を作ることだと思い、これが僕の次のステップアップだと思い今のチームを立ち上げさせていただきました。
「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」というチームなのですが、ちょうど去年モンテネグロのチームとの契約が終わり帰ってきた時に新潟の柏崎にあります新潟産業大学の学長の広川先生に「大学で教員をしながら水球をしないか?」とお話をいただきまして「大学には水球部もあるので次の新しいキャリアとして監督もしてみたらどうだ」と言う事でこれは何か新しいチャンスになるのではないか?と思い日本に帰ってきたんです。
そして僕も大きな構想を持っていたので「社会人チームを作りましょう」と広川先生や柏崎の水球関係者の皆さんにご協力いただいて今年チームを立ち上げる事が出来たんです。
 〜これは日本を強くするための社会人チームとお聞きしましたがどういうことでしょうか?
チームの形としては社会人チームなのですが、今考えている構想というのは柏崎には色んな企業がありますのでみなさんに雇用をお願いして今日本代表でやっているメンバー、もしくは大学を卒業する2012年2016年を目指していきたいと言う選手たちを雇用していただいて普通に定時まで仕事をしてその仕事が終った後に全員で練習をしようではないか、と。
それをする事によって社会人チームなんですが、中を見れば日本代表のメンバーが全員集まっていれば365日日本代表の練習が行える事になります、それは今まで実業団チームやリーグが無かった水球界にとって大学を卒業した後プレーすることが難しかった選手の受け皿にもなり社会人が生き残る環境がここに出来ますのでその事によって水球界の強化を図りたいと言う思いがあります。
今、アルバイトをしながらやっている選手や大学卒業後も仕事には就かず仕送りをもらってやっている選手もいますのでそういう問題を少しでも解決できれば今後の発展につながりますから。
 〜将来的には柏崎は「水球の町」といったイメージになりそうですね
スポーツで町おこしというのは各地で行われていて、カーリングの青森ですとかサッカーで言ったら鹿島、体操なら鯖江といろいろあるのですがその中で「水球の町・柏崎」を確立して町全体を活気づけて元気づける事が出来れば僕らにとっても町にとっても一番良い事かと思います。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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