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【元近鉄のエース・阿波野 秀幸(あわの ひでゆき)さん】2011年1月10日(月)〜14日(金)

【元近鉄のエース・阿波野 秀幸(あわの ひでゆき)さん】
夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
今週のゲストは、元近鉄のエース・阿波野 秀幸(あわの ひでゆき)さんです。野球との出会いから、球史に残る伝説の1988年の10.19の真相、そしてこれからの夢についてお伺いします。

1964年生まれの神奈川県出身。
1987年、亜細亜大学から、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。
1989年には、最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。
その後、巨人、横浜へと移籍。そして2000年に現役を引退されました。
現在は解説者として、また住友金属鹿島・硬式野球部の投手コーチとしても活動中です。



野球との出会いは?
→小学校4年生の時です。父が少年野球団のコーチをやっていて「家で暇しているなら、お前も野球をやれ」と言われました。まるでスポ根漫画に出てくるような親子関係でした。グランドではもちろん、家に帰ってからも父に怒られてばかり。いつかそんな父を認めさせるんだ!と思いながら野球をやっていました。

子供の頃の夢は、プロ野球選手?
→僕が子供の頃はスーパーカーブームだったんです。だからF1ドライバーになるのが夢でした。ちなみに2番目になりたかった職業は本屋さん。あの静かな雰囲気がとても好きでした。

最大の努力は?
→高校1年生の時、体が細く、体力がなかった。だから投げるボールが速くなかったんです。高校1年の秋頃、野球部の監督から、学校の帰りは電車に乗らず10キロを走るように言われたんです。それが嫌で嫌で。サボリたいんだけど、どこかで監督が見ているような気がしてサボれませんでした。そのかいあって半年でボールが5、6キロ速くなりました。

高校時代は、どんなピッチャーだったんですか?
→自信ばかりで実力が伴わない、わがままなピッチャーだったと思います。ある時、試合で味方がエラー、僕はふてくされていたんです。すると昔、うちの高校の監督だった方に「阿波野、野球をナメるんじゃない!野球は一人でやるもんじゃない!」と一喝されました。うちの高校は野球の有名校ではなく、普通の公立高校だったので、勝つためには団結力が一番大切だったんです。怒られた時は、ただただ怖いだけだったんですが、後になって、あの一言が理解できました。

最大の壁、挫折は?
→1988年の「10,19」です。川崎球場でのダブルヘッダー、2試合勝つとリーグ優勝という試合に僕が登板。1試合目勝利し2試合目。勝っていたのに僕が同点ホームランを打たれて、結局引き分け。優勝は出来ませんでした。ホームランを打たれた時、キャッチャーのサインは僕の一番得意だったストレート。僕の球を信じて出してくれたサインに、僕は首をふり、変化球を投げてしまったんです。僕はあの試合で、一球の重み、一球の大切さを知りました。その経験があったからこそ、翌年リーグ優勝出来たんだと思います。その優勝を決めた試合、最後のバッターには全球ストレート。その時キャッチャーからのサインはなし。「もう解ってるだろう」お互いそんな気持ちでプレイしていました。

野球人生で印象深いことは?
→30歳の時にトレードで巨人へ移籍。大人のピッチングを意識するあまり、結果を出せませんでした。そして横浜へ。野球人生の最後をかけ頑張りました。入団した年にリリーフで50試合以上に登板。横浜38年ぶりの優勝に貢献することが出来ました。僕はドラフトで、近鉄、巨人、横浜に指名して頂きました。指名してくれた全ての球団でプレイ出来て、とても幸せです。

今後の目標は?
→今、社会人野球のコーチをやっています。そこで一緒にプレイした選手がプロに巣立って活躍しています。そういうシーンを見ると、うれしくなります。僕は野球の魅力は、色々な個性豊かな選手がいることだと思っています。たまには奇抜な選手がいてもいい、だから指導する時には型にはめずに教えています。



政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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