• Facebook
  • Twitter
  • LINE

京谷和幸さんが岡田武史さんから言われた人生の支えとなっている言葉

  • LINEで送る

今回のゲストは、
車椅子バスケットボール元日本代表で、
シドニーパラリンピックから
アテネ・北京・ロンドンと4大会連続で出場された

京谷和幸さんです


京谷和幸さんのプロフィール】

京谷和幸さんは、1971年、北海道室蘭市のお生まれ。
地元の強豪・室蘭大谷高校(現在は大谷室蘭)では
1年生から背番号10番を背負い、
全国高校サッカー選手権に、3年連続出場を果たされました。
卒業後の1991年にジェフユナイテッド市原とプロ契約、
しかし、93年のJリーグ開幕半年後に交通事故で脊髄を損傷、
車椅子生活となりました。
 
その後出会った車椅子バスケットボールで、
2000年のシドニーパラリンピック日本代表入りを果たすと、
アテネ・北京・ロンドンと4大会連続で出場。
ロンドンパラリンピックの後、現役を引退。
現在は、車椅子バスケットボール日本代表アシスタントコーチ、
さらに、U23日本代表のヘッドコーチも兼任し、
2020年東京パラリンピックでのメダル獲得を目指されています。


 



–サッカーで将来を嘱望されていたプレーメーカーでしたね?

そう言っていただけるのは光栄です。
将来は日本代表でやりたいと思っていましたし、
自分にとってサッカーは人生そのものでした。
 
 
-Jリーグが発足する3年前、1990年に高校を卒業、
日本にプロサッカーが無い時代です。
どんな夢を描いていました?
日本じゃなくても海外でも
プロサッカー選手になりたいと思っていました。
とにかくサッカーで有名になろうと、
地元の名門・室蘭大谷で活躍して
スカウトが来ればいいなと思っていました。
 
 

-でも、海外に行ってプロサッカー選手になるって遠い時代ですよね?
ただ、当時、ドイツに渡ってプロサッカー選手になっていた
奥寺康彦さん、
尾崎加寿夫さんがいましたので、
自分もそういう道に進むことが出来るんじゃないかと、
サッカーマガジン、サッカーダイジェストを読みながら
思っていましたね。

 
 
-高校時代は、順風満帆でした?
高校はそうでしたね。
ただ、中学の時に、北海道選抜で全国大会に出た時に
全然使ってもらえなくて、
とても悔しい思いをしたんです。
そこから絶対負けたくないと思って、
高校に繋がりましたね。
 
 
−リクエスト曲は?  
HOUND DOGの「AMBITIOUS」です。
心が沈んだり落ち込んだ時に聞くと元気になるし、
Jリーグが開幕する前に怪我をして
トップチームに上がれなかったんですが
この曲を聞いて「よしやるぞ!」と思いになって。
そこから上り調子になって、デビューすることになるんです。
サッカー時代の僕を支えてくれた曲ですね。


そんな京谷和幸さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』

−サッカーのトップアスリートとしてやってきた京谷さんが
車椅子バスケットボールに必死に取り組むのって、
簡単なことではなかったのでは?
確かに簡単なことでは無かったんですが、
サッカーの時は自分中心に物事を考えていました。
事故を起こした時に、常に支えてくれた、妻の存在があって…。
実は、事故を起こしたのは、
結婚式の衣装合わせの日の朝だったんです。
でも、事故直後、5日後くらいに、
彼女の方から「入籍しよう」と言ってくれて。
事故の2ヶ月後くらいに車椅子生活になることを宣告されたんですが、
はじめて、彼女が入籍を早めた理由に気づいたんです。
1日も早く支えていきたいという思いを知った時に
これは、もう自分ひとりの人生ではないなと思って。
そこから少しずつ 自分が変わっていくんですね。
彼女の為に出来ることはなんだろうと。
サッカー時代の京谷和幸はもう存在し無くて、
新しい生まれ変わったんですね。

 
 
 
-奥様は、ご両親からの反対はなかったんですか?
後から分かったことですが、
うちの両親からは、向こうの両親に
この話は無かったことにしましょうとは言ったみたいです。
当然といえば当然ですね。
障害を持ってしまって、この先どうなるか分からない。
22歳の若い娘さんに負担は掛けられない。
ボクが親でもそう言ったと思います。
ただ、向こうの両親からその事を告げた時に、

妻は、頑として首を縦に振らなかったと。
初めてお父さんを泣かせたと言っていました。
  
   
-車椅子バスケットボールとの出会いは?
障害者手帳を交付してもらいに、妻が市役所に行ってくれて。
その担当者の方が車椅子の方で。
ボクが後に所属する「
千葉ホークス」の選手の方だったんです。
「サッカーをやっていたなら、車椅子バスケをやってみたら?」
と妻伝いに聞いたんですね。
で、「千葉ホークス」に見学に行った時に衝撃を受けましたね。

車椅子のリムという鉄製の部分が火花散ってるんですよ。
ブレーキをかけるとタイヤのゴムの焦げた匂いが体育館を覆うような。
これはなんなんだと衝撃を受けて!
  
  
  
-どっぷりハマったきっかけは?
その3か月後くらいですかね。
「千葉ホークス」で1人欠員が出て、
急遽国体に出ることになったんです。

バスケットもやったことがないのに、千葉県の代表になって。
国体の試合を見た時に、やっぱりスゴかったんですよ。
一般のバスケットとゴールの高さも、
フリースローラインも、3Pラインも同じなのに、
座ったまま普通に入るんですよ!
千葉は決勝まで進んで、タイムアウトの時に
コーチが作戦版出して動きを説明しているんです。
で、タイムアウト開けのワンプレイ目に作戦版の通りに動いて
得点に結びついたんです。これはスポーツだと!
サッカーで失った輝きを車椅子バスケで
取り戻せるんじゃないかと思ったんです。

そこからですね。本気で思ったのは。
 
 
-サッカーの経験が役立ったことは?
全てですね。
スペースにボールを出していくとか。
自分がディフェンスを背負っていたら、
スルーしてみるとか。
車椅子バスケでサッカーをやればいいんだと。
そこからガッツリハマりましたね。


そんな京谷和幸さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『どんな時でも夢や目標を持たなきゃダメだぞ』
 
岡田武史さんに言われた言葉です。
当時19か20歳だったと思うんですけど。
ユース代表とバルセロナオリンピックの代表、
両方に入っていたので、サッカー人生で一番乗っているときですね。
そんな中、岡田さんに呼ばれて
「お前な、今はバルセロナオリンピックとか明確な目標があるからいい。
 でもな、その先の夢とか目標を考えておかないと、後で大変な事になるぞ。
 だから、夢や目標を持つことが大事なんだ」
あの時にちゃんとそれを受け入れていたら
また違ったサッカー人生だったと思います。
残念ながら、あの時は、うるせーよと思っていました(笑)
この言葉の大事さに気がついたのは、事故の後だったんです。
なんで自分はこうなったのかなって考えた時に、
プロサッカー選手になった時に満足した自分がいたんですね。
事故後にこの先どうしたらいいんだって…
あの言葉がちゃんと残っていたんですね。
ベッドの上で決めたんです。
これからはどんな時でも夢や目標を持って行きていこうと。
その言葉が今の自分を作り上げているのかなと思いますね。
 


〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜
伊達公子さんと、金子達仁さんの著書
『Date of DATE 伊達公子の日』 ¥1,500-(税抜き)

文藝春秋より発売中!

九年半のセカンドキャリアのすべてを綴る三十七歳で現役復帰した伊達公子が
四十六歳で二度目の引退をするまでの九年半の日々と
ファーストキャリアからの心境の変化を明かす。
テニスファンはもちろん、そうでない方も楽しめる一冊です!
是非、ご一読ください!
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908014

聖教オンライン

ニッポン放送の番組一覧

他の番組を見る >