東日本大震災から7年② 東北の被災地、気仙沼はいま?

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【報道部畑中デスクの独り言】

東日本大震災から7年② 東北の被災地、気仙沼はいま?

気仙沼スローシティ 骨格が姿を見せていた

東日本大震災から今年で7年。東北の被災地ではいまも復興への歩みが続いています。私は何度も被災地を訪れていますが、中でも宮城県気仙沼市は毎年“定点観測”的な取材を続けており、今年も足を運びました。

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気仙沼大島を結ぶフェリー乗り場

漁港のある内湾地区周辺は魚市場の拡張工事が行われています。フェリー乗り場の前には「気仙沼スローシティ」と名付けられた“長屋形式”の商業施設、観光施設ができる予定で、その鉄骨が姿を現しました。少し先に目をやると、工事中の三陸道の橋脚がニョキニョキと生えています。さらに気仙沼大島を結ぶ大島大橋、2018年度末にも開通予定ですが、そのアーチが見えます。土でかさ上げされ、さら地ばかりだった地域に少しずつコンクリートの部分が見えるようになってきました。

「やっと街の姿が見え始めてきた。将来、街がどうなるかのイメージがつくフェーズに入ってきた」…地元経済界のトップ、気仙沼商工会議所の菅原昭彦会頭はこのように話します。

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三陸道の橋脚 左奥には大島大橋のアーチが見える

災害公営住宅、いわゆる復興住宅は建設が完了。気仙沼市によると、仮設住宅に身を寄せている人は今月1日の時点で436人。一方で漁業の水揚げ量は震災前の8割程度、これは震災のほかにも気候変動、乱獲という要因もあるそうですが、販売ルートを含めて厳しい状況は続いています。開発もコンクリートの“上物”はできても土地区画事業は遅れています。前述の商業施設も国管轄の部分はテナントが固まらないと補助金が下りず、しびれを切らしてテナントが辞退するケースも。改めて募集しても審査はやり直し、テナントはしびれを切らす、さらに開業が遠のく…そんな悪循環が悩みの種のようです。最終的な復興には合計10年ぐらいかかるというのが菅原会頭の見立て。この7年を振り返り、「何もたもたしてたんだ。早くやらなきゃ」と思いながらも「毎日が必死」と話します。

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気仙沼内湾地区まちづくりのイメージ

そして、気仙沼と言えば「防潮堤」を抜きにしては語れません。この7年は市民が防潮堤のあるべき姿について心を砕いた期間と言っても過言ではないのではないでしょうか。防潮堤はもちろん本来は住民を恐ろしい津波から守る、「強力な備え」と言えるものですが、漁港の景観を売りとする気仙沼市にとっては「街を死なせてしまう」ものでもあるのです。菅原会頭はうず高くそびえる防潮堤を海側から見ると、「進撃の巨人」のようだと言います。生活をとるか、街をとるのか…気仙沼市の住民は、そのバランスに苦慮してきました。そうした人たちにとって、この年月は必要な期間だったのではないかと感じます。

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(左)市営野球場に残る仮設住宅(右)いたるところに工事中の防潮堤が

内湾地区から離れ、国道45号線を海岸線に沿って走ると、さらにその思いを強くします。市街地から10kmほど離れたところに大谷地区と呼ばれる場所があります。ここは環境省選定の「快水浴場百選」にも選ばれた美しい海水浴場があります。かつては宮城県内で最初に海開きをし、目の前を走るJR気仙沼線が満員になることもありました。大谷海岸駅は「日本一海水浴場に近い駅」とも言われていたそうです。地元住民もとても大切に思っている海岸で、これを何とか残すために、議論が重ねられました。

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拡張工事中の魚市場

しかし議論は簡単ではありませんでした。大谷地区はこの海岸のほかに、東から順に上記のJR気仙沼線、国道から“海側”の住宅地、道の駅、国道45号線、国道から“陸側”の住宅地が南北にそれぞれ帯状に走っています。ちなみに気仙沼線は津波によって一部不通となりました。JR東日本によると、不通区間については代行輸送手段であるBRT(Bus Rapid Transit=バス高速輸送システム)バスの本格復旧で2016年3月に沿線自治体と合意。BRTが「最終的な復旧形態」で、鉄道の復旧は断念となりました。何層にもなるゾーンのどこに防潮堤を通すのか…?

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国道45号線周辺にはBRTバス専用道路の橋、アーチの建設が始まった

海岸をつぶしたくはない。しかし、それを残せば、防潮堤は陸地をえぐるように入り込み、その分、鉄道や道路、住宅にしわ寄せが来ます。国道沿いに店を構えていた人たちにとっては死活問題、用地買収も容易ではありません。しかし長引けば、家や店をどこに再建するかさえ決まりません。あちらが立てばこちらが立たず…何が一番いいのか? 5つの案を基本に微調整を繰り返し、住民らが知恵を絞ってようやく固まった結論が「防潮堤の上を国道が走る」…つまり国道をかさ上げする案でした。

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(左)鹿折地区で見瀬中の橋(右)鹿折地区の復興住宅

防潮堤の位置が固まったのはおととし2016年7月。今年に入って着工となりました。工事の間は「仮の国道」もつくらなくてはなりません。完成はさらに今から3年後…震災から10年後の2021年3月の予定です。

大谷地区に住む酒店経営の大越巌さんはかつて国道の“海側”にあった住宅兼店舗が津波で流され、現在は仮設の店舗で営業を続けています。予定されていた大越さんの店舗の再建場所には不運にも防潮堤に接続される道路がかかることになり、しばらく仮設での営業が続きそうだと話していました。

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周辺の仮設商店街は撤去 南町紫神社前商店街ができた

また、周辺で建設中の防潮堤の高さは約10m。「やっぱり高い。海が見えないのはこんなに怖いものなのか」…もちろん安全のための防潮堤なのですが、安心と同時に不安もあると漏らします。「店の再建は、あと2年はかかるのではないか。うーん、ゆっくりもしていられない」…大越さんは困惑の表情をにじませていました。ちなみに市内の防潮堤の整備率は今年1月末時点で24.5%にとどまっています。

「復興が遅々として進んでいない」と言われますが、その裏には地域の住民それぞれの“戦い”があります。そして、それは現在も続いています。

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大谷海岸周辺 美しい海水浴場は”復活”するという

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