本日2月22日は“元祖・生涯ロカビリー”山下敬二郎の誕生日

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【大人のMusic Calendar】

今からちょうど60年前の1958年(昭和33年)2月8日から1週間にわたって行われた第1回日劇ウエスタンカーニバル。当初は不入りを予想されてのイベントが、いざ蓋を開けてみたら、連日満員札止め大盛況を記録。一気に日本じゅうにロカビリー旋風が吹き荒れることとなった。その渦中にいたのが、“ロカビリー三人男”と称された、平尾昌晃(当時は昌章)、ミッキーカーチス、山下敬二郎の若手歌手たち。平尾、ミッキーが高校時代からジャズ学校に通い、米軍キャンプやジャズ喫茶などでその歌唱に磨きをかけるといった正当な歌手道を歩んでのデビューだったのに対し、山下敬二郎の歌手道だけは異質なものだった。

山下は、1939年(昭和14年)2月22日に東京の麹町に生まれ、牛込で育った。父親は落語家の柳家金語楼で、「お金を頂いて人様を笑わす人間がどうして金を払わない家族まで笑わせなければいけないんだ?」という考えを持つ父親とは良好な関係が築けぬまま、山下は思春期を迎えた。中学卒業後にアメリカかぶれが高じて英会話の学校へ行くもすぐに退学、そのまま不良の道まっしぐらの少年時代を神楽坂で送った。その荒みぶりに業を煮やした父の金語楼はある日、山下に最後通告をする。「お前がこれ以上親不孝を続けるなら、お前を少年院に入れるしかないな。それかウィリー沖山さんの付き人をやれ!」

少年院などに入れられたらたまらないとなった山下は、迷わずウィリー沖山の付き人となった。ウィリー沖山はカントリーの歌手で、山下は彼のステージを中学1年の時に見ていた。ステージで歌うウィリーの腰に付けた2丁拳銃にテンガロンハット、そして派手な衣装にゴツいウエスタンブーツ。まさに山下が当時憧れていた西部劇の世界そのものの格好でウィリーは歌っていた。山下は歌より、この西部劇のファッションに惹かれたとのちに当時を振り返っている。が、金語楼から息子を歌手にして欲しいと頼まれたものだと勘違いしたウィリーは山下に歌の手ほどきをした。

歌手になることなど微塵も考えていなかった山下だったが、次第にまんざらでもなくなっていく。そして米軍キャンプのジュークボックスから流れるビル・ヘイリーの〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉やエルヴィス・プレスリーの〈ハートブレイク・ホテル〉を耳にした時、山下の人生が決まった。1957年(昭和32年)2月、山下はリード・ヴォーカルとして、サンズ・オブ・ドリフターズに加入し、同年5月に有楽町のヴィデオホールで開かれたウエスタンカーニバルで平尾とミッキーと初めての共演を果たした。

負けず嫌いの山下はその熱狂のステージで数々のエピソードを残した。「昔はギターのピックも粗悪なセルロイド製だったから、激しく三連ビートなんかを刻むものなら、ピックから煙が上がったな。そのピックが跡形もなくなってしまった時、あとは指で弾くんだけど、指から血が吹くだろ? その血を頬で拭う。すると前例の女たちが絶叫しながら失神するんだ」「ステージから引きずり降ろされたら最後さ。俺の股間には無数の女たちの手が伸びてきたな。大和撫子の本性見たりさ」。

そんな山下は2011年1月5日にこの世を去った。生前、山下は別に歌が好きで歌手になったわけじゃないと周囲に豪語していたが、その生き様はまさに元祖・生涯ロカビリーと呼ぶに相応しいもので、その礎となっていたのは山下の生来の優しさだったということを筆者は誰よりも知っている。

山下敬二郎「ダイアナ」ジャケット撮影協力:鈴木啓之

【著者】ビリー諸川(びりー・もろかわ):1957年東京生まれ。1989年にFUロカビリー歌手としてメジャーデビュー。1995年には小説を上梓し、作家デビューも果たす。'02年には平尾昌晃氏よりロカビリーの伝承者に任命される。全日本ロカビリー普及委員会会長。座右の銘は、生涯ロカビリー。
本日2月22日は“元祖・生涯ロカビリー”山下敬二郎の誕生日

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