報道部畑中デスクの独り言

日産・無資格検査問題に思う②

【報道部畑中デスクの独り言】

日産 西川 社長

謝罪する日産・西川社長

「資格のない従業員が新車検査を行っていた」…いわゆる無資格検査問題。
日産自動車は11月17日に国土交通省に報告書を提出、その後の記者会見で西川広人社長は「皆様からの信頼を裏切り、深くおわび申し上げます」と謝罪しました。
報告書では以下の事実が明らかになりました。

・5つの工場で補助検査員の検査が常態化
・完成検査員の予備印を購入し補助検査員に貸与
・多くの工場で1990年代から常態化、栃木工場は1979年からの可能性も
・今年9月20日の再発防止策の後も5つの工場で無資格検査
・任命・教育の基準書に沿っていない運用があった
・複数の工場で問題と答案が一緒に配布されたり、教材を見ながらの受験があった
・監査の日に補助検査員を外すなどの不正逃れがあった

記者会見

記者会見

そして原因と背景についてはこのように記されていました。

・完成検査員の不足、人員配置が適切でなかった
・完成検査員に関する規範意識の薄さがあった
・上司の制度に対する認識が薄かった
・現場と管理者の間の距離があった。管理者は常態化に気付いていなかった

日産 西川 社長

日産・西川社長

その上で再発防止策として「予備印の廃棄」「顔認証による出入場の管理」「完成検査員の作業帽変更」「完成検査員の増員」「日本の工場全体を統括する常務執行役員の任命」が示されました。

記者会見は約2時間半に及びました。西川社長はこうしてあぶりだされた原因の中で、特に「現場の行動と管理者側の認識の薄さ」「現場と管理者との距離」を強調していました。

今回の問題は決して許されることではなく、弁解の余地のない行為であることは間違いありません。ただ、一方でこの問題は日産、そして日本の自動車産業が抱えている課題を様々な角度から浮き彫りにしたと言えると思います。

日産 本社ギャラリー 新型リーフ

日産本社ギャラリー 新型リーフに全力投球だが

「データの上では1989年の追浜工場から。(栃木工場では)その10年前からあったという従業員の証言もある」…西川社長が会見で述べた言葉です。「そんな…」小さいころから車が憧れだった私は愕然としました。

いまではあまり考えられないことですが、1970年代~1990年代の初頭にかけ、日本の自動車メーカーは1つの車種をほぼ4年に1度の割合でフルモデルチェンジし、さらに2年に1度、マイナーチェンジ、フェイスリフトと称して、見た目を大きく変える拡販戦略が一般的でした。新型車が出ると、その翌日は新聞に全面広告が躍り、週末はディーラーの「新車発表会」の広告で埋め尽くされ、子供心にわくわくしていた時代でした。日産も例にもれず、猛烈な新車攻勢をかけていました。特に1979年と1989年…はっきり覚えています。

カメラ

カメラ放列 一段と高い注目

1979年、日産の新型車はフルモデルチェンジだけでも3月にシルビア(S110型 兄弟車としてガゼールも発売)、6月のセドリック・グロリア(430型)、そして秋口11月のブルーバード(910型)の3車種、これにバイオレット3兄弟(A10型)、スカイライン(C210型 愛称は「JAPAN」)、サニー(B310型)のマイナーチェンジなど(当時はヘッドライトの丸型から角型への変更が大流行となりました)…ほぼすべての車種を刷新する勢いで、新車の新聞広告を見ない日はないくらいでした。ちなみにスカイラインを除いて日本国内ではすべて消滅した懐かしい車名です。当時のシェア奪回における日産の意欲は並々ならぬもので、その多くが魅力的なヒット車種となり、特にブルーバードは1980年3月には26427台という驚異的な登録台数を記録しました。

記者会見

記者会見②

1989年~1990年、日本はバブル景気真っただ中、特にこの年は自動車業界では「ヴィンテージ・イヤー」と呼ばれ、歴史を塗り替える車が多く生まれた年です。日産でも「スカイラインGT-R(R32型)」が復活。世界を見据えた当時のフラッグシップセダン「インフィニティQ45」、ヨーロッパで高い評価を受けた初代プリメーラ(P10型)が誕生しました。この時期の日産は「901運動」と呼ばれる「1990年代までに技術の世界一を目指す」取り組みに躍起になっていました。以前の「独り言」でも述べました通り、かつての日産は労使の暗闘、官僚体質などの影の部分が伝えられる中、カリスマ的な技術者も多く、多くの車にファンを熱くさせる魅力がありました。そしてこの2つの時期には現在も語り継がれる名車が輩出されたのです。

記者会見

記者会見③

今回の問題について、西川社長は「動機については明確な答えはなかった」と語ります。ただ歴史をひも解くと、名車を生み出す陰で悪戦苦闘した技術者、拡販戦略のために奔走した生産現場、それを心から理解しなかった経営陣との乖離がうかがえます。こうした環境の中で、現場は「禁断の実」に手を出してしまったのではないか…。

改めて申し上げますが、日産の行為は決して許されるものではありませんし、ブランドイメージの失墜は免れないでしょう。当時の熱い時代に思いをはせた時、何とも言えぬ空しさと哀しさがこみ上げてくる…そんなオールドファンは少なくないのではないでしょうか。

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