増田惠子 芸能界で転機となった3つの出来事

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FM93AM1242ニッポン放送のお昼の番組『高田文夫のラジオビバリー昼ズ

増田惠子 芸能界で転機となった3つの出来事

ピンクレディーの増田惠子が「芸能界で転機となった3つの出来事」を語った。

1976年にピンクレディーとしてデビュー。当時は1日に13~14本の仕事をこなしていたそうで、1日の切れ目も分からないほどの多忙っぷり。そんなピンクレディー、実はデビュー前それほどブレイクするとは予想されていなかった。しかし、阿久悠や土井甫など数人の大人が「そんなに皆が期待してないなら、絶対売ってやる!」と意気込んでいたそうで、当時、相当な責任を感じていたらしい。そんな増田の選ぶ「芸能界で転機となった3つの出来事」がなかなか奥深かった。

【1つ目 『白い風船』と言う名前ではなく、『ピンクレディー』でデビューした事】
知らなかった方も多いのではないだろうか?実は『ピンクレディー』の他に『みかん箱』『ちゃっきり娘』など、いくつかユニット名の候補の中で、『白い風船』という名前に決まっていたというのだ。増田は内心「一曲で終わるんだろうな」と思っていた所へ、都倉俊一が来て「いや、ピンクレディーにしよう」と一言。「もし『白い風船』でデビューしていたら、私はここにいなかった」と振り返る増田。

【2つ目 1981年ソロデビュー曲『すずめ』がヒットした事】
解散後、最初にリリースしたこの曲。当時の事務所の方に「誰に詞を書いてもらいたい?」と聞かれ、無理を承知で憧れだった「中島みゆきさん」と答えると、本当に中島が書いてくれたのだ。そしてデモテープを聞いてみると、あまりに悲しい歌詞に大泣きしてしまう増田。レコーディングの時も、増田の哀愁ある歌声と相まって悲しさが倍増してしまうため、歌詞をあまり考えずに歌うことにした増田は、「帰ったら何食べようかな」なんて考えながら歌ってみるとOKを貰えたそう。

【3つ目 2010年、解散やめ!を発表した事】
2005年にピンクレディーのプロデューサー、相馬一比古が亡くなり、2年後に阿久が亡くなり、その1か月後に土井が亡くなり、ピンクレディーを作った大人がどんどん居なくなっていく状況に心を痛めた増田。そして「今、未唯とここにいられることは奇跡なんだ!」と思い、「やれることをやろう」と『解散やめ!』を決意!その後、全国26か所でコンサートを行い、どの会場でもファン総立ちの大熱狂!ある会場では、ピンクレディーの衣装を着て応援し、曲が変わると、同じように着替えるという大ファンもいたとか。

デビューのきっかけとなった『スター誕生!』で司会だった萩本欽一から貰った言葉が今も胸に残っているという。あの厳しかった萩本が「本当はもっと優しくしてあげたかった」「ダメにならないように厳しくしてたんだ」そう優しく語ったらしい。

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