ヒデとロザンナのヒデこと出門英は多彩なエンターテイナーだった…本日は命日。26年が経つ。 【大人のMusic Calendar】

ヒデとロザンナのヒデこと出門英は、もともと水木英二の名でソロデビューし、ユキとヒデのデュオ時代を経て、1968年に結成したヒデとロザンナでヒットを飛ばして一躍スターとなった。パートナーのロザンナとはその後結婚し、二男一女に恵まれるも、出門英は90年に47歳の若さで病没。歌手だけでなく、俳優業や、作曲活動などでも活躍を見せていた才人の早逝はつくづく惜しまれてならない。平成になって間もない90年6月17日に出門英がこの世を去ってから、早26年もの月日が流れたことになる。

水木英二としての歌手デビューはかなり古く、東芝レコードから最初のレコード「東京ロマンチックガイ」を出したのは62年のこと。カバー・ポップス華やかなりし頃である。日活の第6期ニューフェイスに合格し、俳優活動と並行しての歌手デビューであったがヒットを出すには至らず、66年には佐藤由紀とのデュオ<ユキとヒデ>としてポリドールから再デビューする。翌67年に出された2枚のシングル「白い波」「スノー・ドルフィン・サンバ」はいずれも渡辺貞夫の作編曲によるボサノヴァ歌謡で、後に評価を得ることになるが、当時はヒットしなかった。ちなみにユキこと佐藤由紀は並行して藤ユキの名でビクターからソロデビューし、さらに芸名をアン真理子と改めた69年に「悲しみは駈け足でやってくる」をヒットさせるに至る。

68年にユキとヒデを解散した出門英は、同年にイタリア出身の少女、ロザンナ・ザンボンと<ヒデとロザンナ>を結成して、コロムビアから再々デビューを果たした。当初は「何にも言えないの」がA面であったが、有線のリクエストをきっかけに田辺信一作曲によるB面の「愛の奇跡」に人気が集まり、ジャケットも新たに刷り替えられて大ヒットする。正に3度目の正直といったところで、以降も筒美京平作曲の「粋なうわさ」や、中村泰士作曲の「愛は傷つきやすく」などヒットを連ねてスター街道を驀進した。デビューから5年ほどは作詞を一貫して橋本淳が担当した中で、70年初頭に出された4枚目のシングル「笑ってごらん子供のように」だけは、作詞が佐藤由紀、作曲が出門英、つまりユキとヒデのコンビによるものだった。コロムビア時代の74年までに17枚のシングル、75年からはワーナーへ移籍して、並行して出門英のソロ・シングルも出している。

作曲家としての活動は、ヒデとロザンナのアルバム曲もあったが、脚光を浴びたのは、77年に小柳ルミ子が歌ってヒットさせた「星の砂」であろう。作詞の関口宏とのコンビで話題となったこの曲、そもそもはフジテレビの番組で、タレントが作った歌をプロの歌手が競い合うという企画の優勝曲で、番組内では「八重山哀歌」のタイトルで由紀さおりが歌ったものであったが、当時ヒデとロザンナと同じワーナーパイオニアに所属していた小柳ルミ子が熱望して、シングル発売へと至った。その際にタイトルと歌詞の一部が改められている。日本では沖縄の西表島や竹富島など、サンゴ礁が拡がる地域の砂浜で見られる星の形をした有孔虫の殻と言ってしまえば興ざめだが、星の砂という言葉の響きは極めてロマンティックであり、歌のヒットによって実際にかの地を訪れた人も少なかったことだろう。観光事業にも大いに貢献したヒット曲であった。

「星の砂」がチャート2位の大ヒットとなった小柳ルミ子の次のシングル「湖の祈り」も関口宏×出門英が続けて手がけヒットしている。翌78年には森昌子にも曲を提供してヒットした。「彼岸花」は阿久悠の作詞による想いの込められた作品で、作曲家・出門英にとって「星の砂」と並ぶ代表作に挙げられる。甘いマスクで、俳優業にも復帰していた晩年には、テレビドラマや映画への出演も多くなっていたから、存命であればその経歴をさらに重ねていたと思われる。亡くなる数日前に公開された映画『東京上空いらっしゃいませ』が遺作となった。現在、ロザンナと三人の子供たちが父親の分まで芸能界で活躍しているのは実に喜ばしいことである。

【執筆者】鈴木啓之

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