『無意識に試合に山をもっていける』花岡伸和選手(ハンドサイクリスト)インタビュー(2)

ニッポンチャレンジドアスリート・花岡伸和(ハンドサイクリスト) インタビュー(2)】

このコーナーは毎回ひとりの障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを伺います。

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花岡伸和(ハンドサイクリスト)
1976年大阪生まれ。高校3年生の時にバイク事故で脊髄を損傷し車いす生活に。翌年から車いす陸上を始め、2002年、1,500mとマラソンで当時の日本記録を樹立した。2004年、アテネパラリンピックに出場し、マラソンで日本人最高の6位に入賞。ロンドン大会でも5位に入賞し、陸上を引退。現在はハンドサイクルに転向し、現役でプレーするかたわら、日本パラ陸上競技連盟の副理事長を務める。

―花岡はアテネパラリンピックの車いすマラソンでみごと、日本人初の6位に入賞した。どんなレースだったのだろうか?

花岡 もうサバイバルレースでしたね。オリンピック(のマラソン)もそうでしたけど、高低差が200メートルもあってその中にアップダウンがいくつもあって、登り坂の度に集団が小さくなっていく。スタートした時はトップ集団が20人くらいいたのが、ひと山、ふた山越えて行く間に一人減り、二人減りして、最終的に5~6人になった時に回り見て日本人は自分だけだって気付きました。必死にアップダウンを越えて行ったらトップ集団で残っていたという感じでした。

―花岡がアテネで得た収穫とは?

花岡 女子の土田和歌子という車いすマラソンの選手がアテネに一緒に行っていて、その日の朝のアップの時に僕を見ていて「あ、花ちゃんやるな」って思ったって後で聞きました。思い返してみると確かに落ち着いてはいたんですよ。いつも通りだったので、準備がよくできていたんだと思います。
トレーニングを1000日したとしても本番の日に力が出なかったら何の意味もないけれど、積み上げ型が上手だったり、絞り込みが上手だったりする選手は試合の日に山を持っていける。それを意識的にするのは難しいのですが、無意識にできていたのが2004年でした。

―アテネパラリンピックで入賞をはたし、次の北京ではメダルをと意気込んだ花岡だったが代表選考で落選、北京には行けなかった。

花岡 北京に落選した時に引退も考えたんですが、年齢的にもまだ早いということもありました。選考期間中は調子が悪かったのが2008年の9月くらいには上がってきたんです。選考には落ちたけれど調子は上げることができたので、そこでもう1回、4年後を狙ってみようかなと、ロンドンを目指し始めました。

―念願叶い、花岡はロンドンパラリンピック代表に選ばれた。花岡は大会前、ある決意を胸に秘めていた。

花岡 ロンドンが最後だなということは思っていました。体力的にもそうだし、故障も抱えていたし、勝ちに行くというより、やめに行くという意気込みでした。集大成にしたいという思いがロンドンのパラリンピックではありました。

―花岡はロンドンで陸上日本代表のキャプテンに選ばれた。

花岡 当時からチーム全体やスタッフへの目配り気配りも含めて、いろいろなことを考え始めていた時期だったのでキャプテンの要請を受けました。キャプテンというのは具体的な仕事があるわけではなくて、チームの雰囲気を作っていくムードメーカー的な役割なので、スタッフに言えないような話を選手から聞いたりという動きを選手村ではしていました。

―花岡はキャプテンという大役を務めながら、車いすマラソンで5位に入賞を果たした。集大成として花岡自身、納得のいく成績だったのだろうか?

花岡 ロンドンパラのマラソンでは5位でした。4位に副島正純選手が入っていたので日本人最高位ではなかったのですが、アテネの時より順位が上がったのと周りのレベルも上がっていた中で5位に食い込めたことは評価できますし、何より狙って入賞できたことが嬉しかったですね。
自分の能力、周りの戦力を分析した時に、入賞圏内の力はあって、その日の展開によってはトップ集団に行けるだろうと考えていたので、その狙い通りにいけてよかったです。メダルは取れませんでしたし、世界との壁も感じましたけれどもそれ以上に得るものが多かったです。

(2016年5月30日~6月3日放送分より)

ニッポンチャレンジドアスリート
ニッポン放送 毎週月曜~金曜 13:42~放送中
(月曜~木曜は「土屋礼央 レオなるど」内、金曜は「金曜ブラボー。」内)
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