「われは海の子」は終戦後、GHQの指導で文部省唱歌から削るように言われた【ひでたけのやじうま好奇心】

わたしの大好きな童謡が流れてきました「われは海の子」。
この曲は、1910年に「尋常小学読本唱歌」に掲載された曲です。
この「われは海の子」は終戦後、GHQの指導で文部省唱歌から削るように言われた。
7番の歌詞が原因といわれています。

われは海の子

『われは海の子』歌詞:5番-7番(p.66) (Wikipediaより)

1958年年から、再び小学生の教科書に載るようになったものの、3番までしか歌われなくなりました。
作詞したと言われている宮原晃一郎さんの故郷・鹿児島市の、祇園之洲公園に歌碑が建ててあるそうなんですが、そこでも3番の歌詞までしか、書かれていないそうなんです。

きょうのやじうま好奇心では、「夏の童謡」についてお送りします。

続いては「夏の思い出」。
戦後直後に始まったNHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」で作られた楽曲で1949年6月に、ラジオで初めてOAされました。
作詞した江間章子さんはNHKの担当ディレクターから「夢と希望のある歌をお願いします」と依頼された。

当時「故郷」を歌った歌が流行っていたため、江間さんは母の実家である岩手県と、疎開先の群馬県尾瀬、片品村で見た「水芭蕉」を題材に作詞した。
出来上がった詞を見たディレクターは一言、「尾瀬ってどこですか?」。
尾瀬は、この曲のヒットによって、女性に人気の観光地となりましたが、この曲がヒットする前は、ほとんどの人が知らなかった。

また詞を渡された作曲者の中田喜直さんも尾瀬には行ったことがない。
今なら、曲作りのために尾瀬に行かせてもらえますが、当時は、安く早くの時代。
作曲者の中田さんは、詞のイメージだけで曲をあっという間に書き上げた。
「出来た!出来た!」と中田さんが自宅のピアノで弾いているとたまたま、横で聞いていたお母さんが口をはさんできた。
「ちょっと!少しお粗末ではないの?すぐ書き直しなさい」。

中田喜直

中田喜直 (1952年) (Wikipediaより)

お母さんに怒られ中田さんは、何度も何度も詩を読み返し日本語のアクセントに注意しながら、丁寧に曲を作り直した。
ちなみにこの時中田喜直さんは26歳。
のちに「めだかの学校」「雪の降るまちを」「ちいさい秋みつけた」などヒット曲を連発する大作曲家になります。

後にも先も、お母さんが口をはさんできたのは、この「夏の想い出」だけ。
「夏の想い出」の印税は、すべてお母さんに挙げたそうです。
ちなみに中田さんが初めて尾瀬を訪れたのは、作曲から40年後の1990年だったそうです。

続いては「みかんの花咲く丘」。この曲も大好きです。
戦後直後の1946年8月。
「お猿のかごや」のヒット曲で知られる作曲家の海沼實さんの取材に、音楽雑誌の記者・加藤省吾さんが東京の芝にある、海沼さんの自宅を訪ねた。

海沼さんが「せっかく自宅まで来たのだから、赤飯でも食べていきなさいよ」と、もてなしてくれた。
加藤さんは取材を終え、赤飯も食べ、帰ろうと腰を上げた瞬間、海沼さんから「作詞、していきなよ」と突然言われたそうなんです。

聞けば翌日、静岡県の伊東市からNHKのラジオの生放送がある。
そこに出演する12歳のスター歌手、川田正子ちゃんの歌う曲がないから、今から詞を書いてくれという依頼だった。

川田正子・孝子

『懐かしの童謡歌手たち SP録音復刻盤~川田正子・孝子~』川田正子 (Amazonより)

無茶苦茶な話だと思いつつ、当時高級だった赤飯を食べた手前、断り切れない。
加藤さんは、わずか20分で作詞をしたそうなんです。
実は加藤さんも静岡の出身。あす中継が行われる静岡の伊東のミカン畑を思い出し、ミカンそのものではなく、ミカンの花をイメージして書いた。

この曲、1番と2番は明るい詞なんですが、3番はお母さんについての詞。
これは小学校5年生の時に蒸発し、自分が成人してから再会した、母への気持ちを綴ったものなんだそうです。

そしてその詞を持って、作曲者の海沼さんは東京から、伊東へ向かう列車の中で作曲。
列車の窓から、大磯の海が見えてくるあたり、列車の「ガターン、ガターン」という揺れで、メロディーが浮かんだそうです。

この曲は伊東からのラジオの生放送で大反響を呼び、その後、レコード化され大ヒットとなりました。

8月14日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!「三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

高嶋ひでたけのあさラジ!
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