本日5月27日は五つの赤い風船・西岡たかしの誕生日 【大人のMusic Calendar】

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遠い世界に・五つの赤い風船

1966年に大阪にやって来た高石ともや(当時は友也)さんとぼくは1967年3月に知り合い、高石さんに連れられてあちこちで歌い始めるようになった。すでに関西では日本語で歌うフォーク・ソングの動きが活発になり始めていたが、67年の冬にフォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が関西のラジオで流れたことがきっかけとなって大評判となり、1968年には関西でのフォークの動きが「関西フォーク」と名付けられて(あまりにもそのままのネーミングだ!)大きく盛り上がることになった。

高石ともやさんを中心にフォーク・コンサートもさかんに行われるようになり、そこにぼくも参加していたのだが、一緒にステージに出ていたのが、フォーク・クルセダーズや五つの赤い風船、しばらくしてから登場してきた岡林信康さん、東京から歌いにやって来た高田渡さんや遠藤賢司さんたちだった。

五つの赤い風船と初めて出会ったのはいつのことだったのかはっきりとした記憶はないが、恐らく1968年になってから行われたそうしたフォーク・コンサートのひとつでだったと思う。風船のメンバーの中でもぼくはギタリストの中川イサトさんとすぐに仲良くなり、二人で一緒に会ったり、いろんな話をしたり、そして自分が歌う時にギターを弾いてもらうようになったが、リーダーの西岡たかしさんとはすぐにはお近づきになれなかった。というか、ぼくにとってはとても畏れ多い存在だった。西岡さんはぼくより5歳も年上だったし(18歳か19歳の頃に5歳も年上だと、その人はうんと大人に思えて、近づきがたかったものだ。高石さんは8歳も年上だった)、どこか孤高の芸術家というイメージも漂っていて、打ち解けて話ができるようにはなかなかならなかった(ぼくと同い年の高田渡さんは西岡さんと出会ってすぐに意気投合していたから、これは年齢の話ではないのかもしれない。イサトさんだってぼくより二つ年上だ)。

その頃の関西フォークの動きの中で、ぼくはガチガチでストレートなプロテスト・ソング一辺倒だった。60年代後半の時代状況も、ヴェトナム戦争反対、大学自由化、70年安保延長反対、安保粉砕で熱く燃え上がっていた。ぼくは自分の歌をそうした世の中の動きと直接結びつくものと捉え、戦争反対を強く訴える歌をさまざまなかたちで、より熱く、より直接的に歌おうとしていた。

そして五つの赤い風船もまた戦争反対の歌、平和を願う歌を何曲も歌い、もちろん高石ともやさんも岡林信康さんも、そして高田渡さんもそれぞれのやり方で戦争に反対する歌を歌っていた。そのうち「関西フォーク=プロテスト・ソング→反戦歌」といった乱暴な図式が勝手に作り上げられたりするようになった。

確かにみんな戦争反対の歌を歌っていたが、やり方や表現方法、そしてその思いや考えはそれぞればらばらで、それを「プロテスト・ソング」、「反戦歌」ということで一括りにしてしまうのはちょっと違っているのではないかとぼくは思う。ぼくはとにかく自分の「反戦歌」を、戦争はよくないとただ歌うだけではなく、アメリカの言いなりになるな、当時の日本の政府、佐藤栄作政権をぶっつぶしてしまえという、「直接的」な思いを重ねたものとして歌おうとしていた。

一方そうではなく、どうして人は戦争をするのだろう、平和な世の中になってほしい、人が殺しあったり死んだりするのはもういやだと、もっと人間的な思いを訴える「反戦歌」もあった。フォークが好きな人たちの間で強く支持されたのもそうした歌のほうで、ぼくのような「直接的」な歌は、政治的すぎる、演説みたいだと批判されることも多かった。「五つの赤い風船」の代表的な「反戦歌」、「血まみれの鳩」や「まぼろしのつばさと共に」は、まさにそんな「ヒューマン」なところから歌われていて、だからこそ多くの人たちの心を揺さぶり、今もなお歌い継がれているのだとぼくは思う。

知り合ってすでに半世紀になるのに、西岡さんとはこれらの歌のことについて、いやもっと広くフォーク・ソングということについてもまだちゃんと話し合ったことがない。「あれは『反戦歌』なんかとちゃうで」と西岡さんなら言ったりするかもしれない。一度西岡さんの大好きな日本酒でも飲みながら、二人で心ゆくまで歌のことやいろんな話をしてみたいと願っている(でもぼくは今ドクターの厳命で、減酒&限酒状態だし、西岡さんもお銚子が三本目になったら突然酔っ払うからなあ…)。

【執筆者】中川五郎

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