43年前の今日、細野晴臣の名盤『HOSONO HOUSE』がリリース 【大人のMusic Calendar】

かつて東京近郊の立川、福生、狭山、南林間などにアメリカ村という場所があった。実際の村ではなく、通称である。ネットで見ると、ところによってはいまも残っているようだが、ずっとアメリカ人が住んできたからアメリカ村と呼ばれたわけではない。

第二次世界大戦後から朝鮮戦争のころにかけて、米軍基地で働く人たちのための賃貸住宅が基地周辺にまとまって作られた。郊外にアメリカの住宅風に作られた建物が整然と並ぶ光景は、日本離れしたところがあった。それが基地縮小にともなって日本人にも貸し出され、誰がはじめたというわけでもなくアメリカ村と呼ばれるようになったのである。

アメリカ村の住宅は、日本の賃貸住宅にくらべると、広くて家賃が安かった。1972〜3年ごろ、何軒か見せてもらったことがあるが、小さくても20畳くらいの居間、8畳くらいのベッド・ルームがふたつ、6畳くらいのキッチン、それに物置が付属していて、狭山の場合は家賃が2万円くらい。東京の23区内では1DKしか借りられないような値段だった。そんなわけで、多少遠くても、1970年前後には東京を離れて、アメリカ村に住むデザイナー、イラストレイター、ミュージシャン、ファッション関係者が少なくなかった。はっぴいえんど解散後の大滝詠一や細野晴臣もそうだった。

大滝は福生のアメリカン・ハウスに、細野は狭山のアメリカ村に移り住んだ。はっぴいえんどのラスト・アルバムで「さよならアメリカ、さよならニッポン」とうたった彼らがアメリカ村に住むというのもおもしろい偶然だったが、大滝は住居とは別にもう一軒の家を借り、そこをレコーディング・スタジオに改造して、ナイアガラ・レーベルを立ち上げた。そして細野は狭山の自宅にエンジニアの吉野金次の機材を持ち込んで初のソロ・アルバムをレコーディングした。それが『HOSONO HOUSE』である。

『ニューミュージック・マガジン』(『ミュージック・マガジン』の前身)の編集部にいたぼくは、そのレコーディングの様子を記事にするため狭山まで行った。アメリカ村の光景はたしかに東京の日常風景とはかけ離れて広々としていた。ペンキ塗りの建物そのものが洋風なのに加え、どの家の周りにも芝生があった。そして一群の住宅の背後には、小さな山か丘のような緑が迫っていた。実際に住んでいた人から聞いた話では、見た目の素晴らしさとはうらはらに、壁は薄いし、朝夕霧が立ちこめて、湿気やカビに悩まされるとのことだったが……。

それはさておき細野宅のリビング・ルームやベッド・ルームは、楽器やアンプ類や録音機材で足の踏み場もなかった。自宅録音はザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』やジェイムス・テイラーの『ワン・マン・ドッグ』に刺激されて、ウディな環境でレコーディングしてみたくてはじめたと聞いていたが、郊外の一軒家でレコーディングするという牧歌的なイメージとはずいぶんちがう環境だと思ったことを覚えている。

レコーディングに参加したのは、はっぴいえんど時代からの仲間であるギターの鈴木茂、フォー・ジョー・ハーフのメンバーだったキーボードの松任谷正隆とドラムの林立夫。細野はヴォーカルの他、ベースやアコースティック・ギターなど担当した。このメンバーはそのままキャラメル・ママと名乗って、レコーディングやライヴのサポートで大活躍することになる。

フォー・ジョー・ハーフは小坂忠のバンドで、たしかアメリカ村の細野家の隣が彼の家。彼がワークショップMUで働いていた時期に狭山に住んだことが、細野が隣に移り住むきっかけだったと聞いた気がする。

エキゾチック路線やテクノ以降の作品とちがって、このアルバムの歌は個人的な生活感覚を反映した内省的な作品が多い。夜行列車の音は、実際に狭山の家で聞こえたというし、アメリカ村の風景がそのまま目に浮かぶような歌もある。低めの落ち着いたヴォーカルはうますぎることも下手すぎることもなく、演奏はゆったりしたカントリー・ロックとファンキーなものが交錯する、洗練されて抑制のきいたもの。都心に戻ったその後彼は二度とこういう歌を作らなくなるので、その意味でも貴重なアルバムだ。アナログ時代からもう何度聞いて溝をすり減らしたかわからない。

【執筆者】北中正和

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