ご存知ですか?あの日男たちが多摩川で見た夢を!【報道部畑中デスクの独り言】

By -  公開:  更新:

インディアナポリス500マイルで日本人初優勝を果たし祝福される佐藤琢磨=20170528アメリカ・インディアナポリス 写真提供:時事通信

インディアナポリス500マイルで日本人初優勝を果たし祝福される佐藤琢磨=20170528アメリカ・インディアナポリス 写真提供:時事通信

先日、アメリカ伝統の自動車レース「インディ500」で佐藤琢磨選手が日本人で初めての優勝を果たしました。
日本人の快挙に沸いたのは自動車ファンだけではないと思います。

ところで、日本で自動車レース場と言えば、富士スピードウェイと鈴鹿サーキットが有名ですが、首都圏でも身近なところに常設の自動車レース場がありました。
東急東横線・目黒線の列車から多摩川を望むと、その西方向、神奈川県側の堤防にコンクリート状の階段がスラーっと伸びているところがあります。
天気のいい日は私もしばしば訪れますが、このあたりはグラウンドで野球など様々なスポーツが、休日はバーベキューに興じる姿も見られます。

が…堤防にあるこのゾーンだけは周囲に比べて異彩を放っています。

多摩川スピードウェイ

多摩川スピードウェイ跡地

多摩川スピードウェイ

多摩川スピードウェイ跡地

ちょうどスタンドの観客席のような…そう、ここには多摩川スピードウェイの観客席がありました。
日本初の常設サーキット、日本の自動車レースの"聖地"の一つと言っていいでしょう。

現地に埋め込まれた,多摩川スピードウェイ,の記念プレート

現地に埋め込まれた多摩川スピードウェイの記念プレート

昨年、多摩川駅近くの施設で、多摩川スピードウェイをしのぶイベントが行われました。
そこにあったのは「オオタ号」。
レース車両ではなく、いわゆる「乗用車仕様」ですが、独特のボボボボという音を出しながら、会場を後にしていました。
排ガスの独特のにおい、80年近くの時空を経て、まだまだ動くことには感動を覚えました。

「オオタ号」=オオタ・OC型フェートンの雄姿

「オオタ号」=オオタ・OC型フェートンの雄姿

「オオタ号」=オオタ・OC型フェートンの雄姿

「オオタ号」=オオタ・OC型フェートンの雄姿

オオタという会社は戦前、日本の自動車産業黎明期の時代をつくったメーカーでした。
オオタ自動車工業…創業者は大田祐雄。
「日本自動車競走倶楽部」の一員でもありました。

多摩川スピードウェイでは、1936年(昭和11年)に1回目の全日本自動車競走大会が行われました。
ちなみにトヨタ自動車が設立されたのは1937年(昭和12年)8月。
当時はオオタと日産自動車の"ダットサン"が乗用車人気を二分していたのです。
車両はエンジンを前に収めた長い筒状のボンネットに四輪のタイヤが四隅に踏ん張っているというものでした。

ダットサンとオオタの対決、会社の規模では段違い、多くの観客はダットサンの勝利を疑いませんでしたが、第一回大会では勝利の女神はオオタに微笑みました。
町工場同然の規模だったオオタが"巨艦"日産を下した…貴賓席で観戦した日産コンツェルンの総帥、鮎川義介は結果を見届けず席を立ってしまったと言われています。
その日産は雪辱を期し、全社一丸の体制を敷き「スーパーダットサン」を作り上げます。
第2回大会では平均速度99.6キロという当時としては驚異的なタイムをマークするのです。
「技術の日産」のDNAは実はこの辺りから息づいていたのかもしれません。

両社はその後もレースを通し、技術を磨きます。
しかし、近づく戦争の足音とともに、レースは継続困難になり、レース場も終焉を迎えます。
この多摩川スピードウェイを見届けた人の中には「Z(=日産・フェアレディZ)の父」片山豊、本田技研工業の創設者、本田宗一郎も名を連ねます。
多摩川河川敷を踏みしめてみると、ここには自動車黎明期の情熱が息づいていた…そんな思いを新たにします。

オオタ自動車工業は戦後、不況などの影響で経営危機に陥ります。
日本自動車工業、東急くろがね工業など度々の社名変更を経て、1971年(昭和46年)日産工機に。
多摩川スピードウェイでのライバル、日産のエンジン部門を担う会社となり、いまに至ります。

日本の自動車産業は現在、乗用車8社、商用車4社の体制(四輪車)。
100年近くの歴史の中で、日本でもいくつものブランドが消え、多くの栄枯盛衰が繰り広げられてきました。
「オオタ」、そして多摩川スピードウェイはその歴史の一端を確かに刻んでいます。
(文中敬称略)

Page top