17歳で車いす生活に。障がい者スポーツセンターで運命的にであった車いすレース-廣道純(プロ車いすランナー)インタビュー

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ニッポンチャレンジドアスリート・廣道純(プロ車いすランナー)インタビュー(1)】

このコーナーは毎回ひとりの障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを語ります。

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廣道純(ひろみちじゅん)
1973年、大阪堺市生まれの42歳。高校1年の時、事故で脊髄を損傷し17歳で車いす生活を始める。1994年から世界各国のレースに出場。1996年、大分国際車いすマラソンで日本時初の総合2位に輝き、2004年、日本人初のプロ車いすタンナーに。パラリンピックにも4大会連続で出場。陸上800メートルでシドニーで銀、アテネで銅メダル、北京、ロンドンでも入賞を果たす。現在も現役の車椅子ランナーとして活躍中。

-もともとスポーツが好きだった廣道、少年時代はありとあらゆる競技に取り組んでいた。
廣道 最初に本格的にやったのは、スケートです。
アイスホッケーのシューズを買って、冬のシーズンになったら土・日は必ずスケート・リンクに行くというのを5歳から高校生まで続けていました。
小学校3年生の時に自転車のBMXというモトクロスの競技にはまって、これまた学校から帰るとすぐにモトクロスのコースに出かけてました。

中学になるとマウンテン・バイクに代わって、崖みたいな坂道を下ってくるみたいなことをやっていました。
でも、学校ではクラブ活動が長続きせずに、中1の陸上部では先輩とケンカして辞める、2年でテニス部に入るも「球ひろいせえ」と言われて一日で辞めるというようなアスリートとは全く違う生活をしていました。

-だが、高校1年生の時、バイクで事故を起こし、脊髄を損傷。診断の結果、足はもう一生動かないと宣告された。スポーツ少年だった廣道は立ち直れないショックを受けたかと思いきや…。

廣道 よく聞かれるのが、「車いすになって、落ち込んだでしょう。そこから這い上がってくるの大変だったでしょう」って言われるんですけど、実際バイクで死んだかもしれないという経験もして、たまたまそれが助かったという思いで、気が付いたら車いす生活になるって知らされたんですね。
だから「死んでたはずなのに、生きてるわ」っていう喜びのほうが強くて、ポジティブ・シンキングってよく言われるんですけど、もし、あの時自分が死んでたって思うと、助かっただけでも本当にラッキーだったと思いますし、助かったおかげで今、こんなに楽しい生活ができているというのを考えたら、あの頃落ち込まずに済んだのは正解だったなと思います。

-そして廣道は、持ち前のバイタリティですぐに新たな生きがいを見つけた。

廣道 運動が得意だったことでリハビリが全く必要ない状態で車いすを乗りこなしていたんですね。
その僕の姿見て力が有り余っているからこのパワーを何かに発散させてあげないとかわいそうだということで、車いすでもスポーツが出来るのだけどやってみないか声を掛けられて、障がい者スポーツセンターに見学に行きました。
先輩たちが陸上用のレーサーという車いすに乗って走り回っていた、その風を切って走っている姿を見て、「オレもこれやる!」、その日に退院したらここ来ますから、と言って帰ってきました。
入院中に外出届けでスポーツセンターに行って、そのまま陸上の世界に入ることを決意しました。

(4月25日~5月6日放送分より)

ニッポンチャレンジドアスリート
ニッポン放送 毎週月曜~金曜 13:42~放送中
(月曜~木曜は「土屋礼央 レオなるど」内、金曜は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。

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