1963/4/28 Richmond Crawdaddy Clubでアンドリュー・ルーグ・オールダムがその後マネージャーとなるRolling Stonesと出会う【大人のMusic Calendar】

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Rarities,Andrew-Oldham

人生において「出会い」というものは、たいへん重要な出来事のひとつである。その偶発性において、幸せになったり不幸になったりする。言い換えれば、それが「運命」というものの正体かもしれない。アンドリューが、1963年4月28日(日)にロンドンのクロウダディクラブに出演中のローリング・ストーンズのライヴを観に行き、魅力を感じ、しかしアプローチしていなければ、互いにその後の人生は大きく変わっていただろう。

アンドリュー・ルーグ・オールダムは1944年1月29日生まれで、ストーンズを最初に観たとき彼は「19歳の少年」だった。彼の父親は空軍中尉で彼が生まれる前年に、ドイツの空爆で亡くなった。母親はオーストラリア系移民だったという。チャーリーが1941年、ブライアンが42年、ミックとキースが43年生まれだから、殆ど戦争さなかに生まれた同世代ということになる。アンドリューは、スィンギング・ロンドンの胎動を感じながら、マリー・クワントの助手をしたり、ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインの下で宣伝助手をしていたらしい。彼には野心があったと推測される。つまり、破竹の勢いで世界を席巻してゆくビートルズ旋風を間近に見て、「よし!俺も一発当ててやろう!」という気持ちだったのだろう。バンド・ハンターになっていた。ただ強い意欲はあっても、音楽的素養やビジネスの経験は、若さ故に殆どなかったと言っていいのではないか。初の公式録音「Come On/I want To Be Loved(オリンピック・スタジオ、5/10収録)」をデッカは却下し、あらためてデッカ・スタジオで再録音したという話がある。プロデューサー、アンドリューの最初の失敗である。むしろ、それが反語的に「現在ある奇跡の種子」を蒔いたとも言えまいか。

4月28日の一週間前に、ビートルズの4人が、同じようにクロウダディに出掛けストーンズを観て驚き、その感想をアンドリューに漏らしていたのかもしれない。若きアンドリューは信頼を得るべく知り合いのエージェントのエリック・イーストンを連れて万全の構えで出かけたのである。二人はストーンズを観た翌日に、イチも二もなく説得し、マネジメント契約を果たす事になる。それ以前に、ストーンズが1月にチャーリー・ワッツを勧誘確保し、バンドとしての体裁を整え、録音エンジニアのグリン・ジョンズの協力で、IBCスタジオで初めてのレコーディングを行なった「貴重な6曲入りのテープ」を気前よく90ポンドで買い上げている。同時にアンドリューは、「インパクト・サウンド」という芸能プロダクションを設立するという気合いの入れようである。トントン拍子だ。

当時アンドリューは多分ドーパミンが出まくっていたのではないかと思われるほど、矢継ぎ早に「イメージ戦略」を提案する。まずは6人目のストーンズであるイアン・スチュワートを裏方に配置。さらに「アンチ・ビートルズ路線」すなわち「不良、反骨、反道徳」などのスキャンダル路線を打ち出し、雑誌や新聞に細かい指示を出して取材をさせる。キースの名前を「リチャード(Sを削除)」にしたり、ミックの舞台上の下半身動作に性的な暗喩を求めたりしたようだ。しかし、実際には、大々的な売り出し戦略は、試行錯誤の連続だったようだ。その実例が、ファーストシングル「Come On」を発売した後のTV出演で、お揃いの襟付きスーツを着用させたが、一度きりだったり、ビートルズに楽曲の提供を求めたりした。それは言わずもがな「I Wanna Be Your Men(彼氏になりたい)」である。(これは間近でビートルズの作曲法を見せたかったのかもしれない。)そして間断なく続く英国ツアーを設定したり、自身で「オーケストラ」を編成したりもした。常にビートルズに激しい対抗心を燃やしていたのは実はアンドリューだけだったのかもしれない。

ビートルズがいち早くオリジナルでヒットを連発すると、負けじとばかりにミックとキースを「台所に閉じ込め」て自作曲に専念させた。つまり、彼の提示するアイデアの根底には、ビートルズだったり、フィル・スペクターだったり、何等かの成功者モデルがあったと推測される。ただひとつ独特の概念は「視覚的要素」であったようだ。丁度、テレビが世界的に普及し始めた時に、ストーンズの売れ方も延びて行ったと推測する。『英レコード・ミラー』の記者、ピーター・ジョーンズ曰く「ストーンズはルックスに魅力あり」と言う事だ。

バンドの主導権に関しても、当初ブライアン・ジョーンズにあったものが、いつの間にかミックに移行したのもアンドリューの「仕掛けた罠」だったのではないかと思われる。その手法の中に、「ドラッグ仕掛け」があったとするマニアもいるようだ。そういった暗黙の駆け引きの中で、アンドリューは次第に自滅回路を疾走していった。1965年に米国人アラン・クラインをビジネス・マネジャーに雇い入れ、ついにはバンドの楽曲権利を譲渡する事を考え始めたのもアンドリュー自身だったようだ。そういうアンドリューを憐憫する歌がある。「Andrew's Blues」である。アンドリューと訣別するミックとキースの共作曲である。

アンドリュー・ルーグ・オールダムは1967年暮れに薬物中毒が原因でストーンズの仕事から退いた。

まさに諸行無常のロックンロールである。

【執筆者】池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。

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