1966/3/20 ジャッキー吉川とブルーコメッツ「青い瞳(英語盤)」発売!【大人のMusic Calendar】

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青い瞳(英語版),ジャッキー吉川とブルーコメッツ

今から51年前の1966年3月20日にリリースされたジャッキー吉川とブルーコメッツの「青い瞳(英語盤)」(作詞:橋本淳/作曲:井上忠夫)は、売り上げが10万枚を超えるヒットとなり、同年7月に発売され50万枚以上のセールスを記録した日本語盤と併せ、“グループサウンズ(GS)”としてのブルコメによる実質的なデビュー曲として知られている。

青い瞳,青い彗星

「青い瞳(日本語盤)」リリース翌月の1966年8月にザ・サベージの「いつまでもいつまでも」、9月にザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」、さらに11月にはザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」が相次いで発売され、何れもスマッシュヒットとなって、1966年は“GS元年”とも言うべき様相を呈した。「青い瞳」は一連のGSによるヒット曲の嚆矢と位置付けられ、いわゆる“GS時代”の幕を開けた楽曲としても認知されることになり、ブルコメはNHK紅白歌合戦にGSとしての初出場を果たしている。

この「青い瞳」の成功に続いて、ブルコメはその後「青い渚」「ブルー・シャトウ」「マリアの泉」(英題は“Blue Fountain”)とブルー路線でヒット曲を連発し、150万枚を超える大ヒットとなった「ブルー・シャトウ」が1967年の第9回日本レコード大賞も受賞。ブルコメはGS黄金期の前半に人気を二分していたスパイダースとともに、時代を席巻したGSブームの牽引役として存在感を示した。

しかし、もともと鹿内タカシや尾藤イサオといった歌手のバックバンドだったブルーコメッツが、GS時代の幕を開けるヴォーカル・インストゥルメンタル・グループとしての地位を確立するまでには、知られざる紆余曲折があったことも紹介しておきたい。

インストゥルメンタル・グループだったブルコメがコーラスの練習を始めたのは、東京五輪が開催された1964年の終わり頃からで、翌1965年の春には「インスト・バンドにヴォーカルは邪道だ」という主張を貫いたベースの江藤勲がブルコメを脱退。江藤の後を受けて、高橋健二がブルコメに復帰し、GS時代のメンバー5人が揃った。

1965年8月には、コロムビアのCBSレーベルからブルコメ単独名義による初レコード(EP)がリリースされ、収録曲すべてにブルコメのコーラスが入るという画期的なミニアルバムとなった。ブルコメの担当ディレクターだった故・泉明良氏は、「インストで考えていたのに、レコーディングの段階でコーラスを入れたいという話になり、『そんな必要はない』と言ったが、聴いてみたら良かったから、そのまま録音することにした」と述懐している。

井上忠夫が「青い瞳」を作ったのはその直後の1965年秋で、当時、フジテレビ『ザ・ヒット・パレード』にブルコメを起用したディレクターのすぎやまこういち氏に聴いてもらい、すぎやま氏のアシスタントだった橋本淳氏が詞をつけることになった。

日本語のデモ・テープを聴いた泉氏は、「CBSレーベルでは英語のレコード以外は出せなかった」と語り、橋本氏が改めて英語の詞を作って、ようやくレコーディングが実現した経緯を明らかにしている。

ブルコメが1966年2月に初めてリリースしたシングル盤の「サンダーボール/ミスター・キス・キス・バン・バン」は両面ともインスト曲で、2枚目の「青い瞳」が発売された翌月の1966年4月には、再び、両面インスト曲となる3枚目のシングル「愛の終わりに/バラ色のドレス」もリリースされており、「青い瞳」のB面である「青い彗星」もインスト曲だったため、3カ月の間に発売された3枚のシングル盤では、6曲中5曲までがインストだったことになる。

GS時代の幕を開けたと言われる「青い瞳」だが、実は、当時のブルコメによるシングル盤ラインナップにあっては、むしろ、異色の存在と言える楽曲だったのである。

ブルコメを『ザ・ヒット・パレード』のレギュラーに起用し、番組のヒット・チャートで上位曲として「青い瞳」を紹介し続け、本当にヒット曲にしてしまったすぎやま氏は、タイガースのデビュー曲「僕のマリー」から「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑み」「君だけに愛を」を経て、5枚目のシングル「銀河のロマンス/花の首飾り」にいたるまで作曲をてがけており、「花の首飾り」は1968年4月にGSの楽曲としては初めてオリコンチャートで1位となった。

「青い瞳」のヒットで勢いを増したブルコメがブルー路線のシングル盤に続いて1967年9月にリリースした「北国の二人」も、実は、オリコンが1968年から正式にスタートする前に試作したチャートで“幻の1位”を獲得しており、1967年から1968年にかけてのGS全盛期を現出させた功労者として、すぎやまこういち氏が大きな役割を果たしていたことを改めて思い知らされる。

【執筆者】鈴木清美(すずき・きよみ):1955年生まれ。新潟県長岡市出身。幼少の頃から叔母や姉の影響で青春歌謡にどっぷり浸かるも、全盛期のザ・スパイダースとザ・タイガースを生で見てGSに転向。周囲の反対を押し切って、中1でブルコメ・ファンクラブに入会。1997年にホームページ「60年代通信」を開設、1960年代の大衆文化や生活文化への愛情を注ぎ込んでいる。(※「60年代通信」はサーバー移管のため、限定公開中。2017年4月から本格的に再開予定)。

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