「復興は進んでいるがこれからが正念場!」上柳昌彦『大船渡・カメラの太陽堂』にて

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3.11震災があった翌週、当時の私の番組(上柳昌彦ごごばん!)に、こんなメールが届いた。

ネットで知った岩手県大船渡市の写真店に、フォルムで撮影した写真の同時プリントをお願いしました。36枚撮りのフィルムの同時プリントが500円以下ですから、安くて助かるのです。何本かまとめると送料もサービスしてくれました。最後にお願いした同時プリントが『終了したので発送しました』との連絡をもらったのは、3月11日の朝でした。その写真はいまだ到着しておらず、写真店との連絡は途絶えたままです。私の素人写真など、どうでもよいのですが、写真店の方々、どうかご無事で、と願っています。店の名前は『カメラの太陽堂』です。本当に、ご無事でいてください。(横浜市戸塚区44歳「ラジオネーム 横浜のピロじい」さん)

すぐにインターネットで調べると『カメラの太陽堂』は岩手県大船渡市盛町(さかりちょう)にあった。経営者は佐藤さん。電話番号もわかり、電話をかけてみたが「呼び出し音」はするが誰も出ない。NTTに問い合わせると大船渡市内は電話が不通の状態とのことだった。
大船渡市内への電話はしばらく不通だったが、その後、佐藤さん(当時51歳)と電話で話すことができた。

震災当日、自宅兼お店には佐藤さんと母親の二人。妻と娘と孫はショッピングセンターへ買い物に出かけていた。地震発生後、『ちょっと見てくる』と母を置いて、佐藤さんはショッピングセンターへ迎えに行った。みんなの無事を確認し、家に帰ると、道路が封鎖されて「立ち入り禁止」に。
「この先は津波で入れません!」
「でも母がいるんです!」
家に残した母親は、幸いにも消防団に救出されて無事だった。
佐藤さん一家は、高台の「盛(さかり)小学校」へ一時避難。しばらくして自宅の様子を見に戻ると、お店は1階部分が海水に浸かり「まるで大きな脱水機でかき混ぜられたような状態だった」という。
店内はグチャグチャ。現像機や一眼レフカメラも海水に浸かり、何もかも使い物にならない。
佐藤(英克)さんは2代目。先代の父は、海に近い「大船渡町」で写真店を経営。チリ地震で店が流されたので、海から3キロ以上離れた「盛町」に新しい店を開くが、再び、津波の被害を受けてしまった。

「メールを送ってくれた番組リスナーさんが“太陽堂さんが無事なら、自分の写真はどうでもいい”と言っていますよ。」
「とても心苦しいです。当日5~6人のお客さんに発送する予定だったんですが、それも津波に流されてしまいました。」
「これから、お店、どうされますか?」
「店を閉じようと思ったんですが、瓦礫の山を見ると気持ちが奮い立ったんです。落ち込んではいられないって。こんなことでくじけたら恥ずかしい。中古の機械を探して2か月後には店を再開したいです。」
「佐藤さん!お店を再開したら、そちらに伺います!その日まで頑張ってください!」

佐藤さんは電話でお聞きした通り2ヶ月ほど経って『カメラの太陽堂』を再開した。
翌年、私は大船渡を訪ねた。佐藤さんは張り切って仕事をされていると思った。ところが会ってみると、表情が固く、言葉も少ない。マスコミに騒がれることが、嫌なのだろうか?とも思った。

カメラの太陽堂2017年3月4日大船渡市

今年3月4日大船渡を訪ねた。
『カメラの太陽堂』を訪ねると佐藤さんの表情が柔らかくなっていた。
「気持ちが落ち着きましたか?」と尋ねると、苦しかった時期をぽつぽつと話してくれた。
「あの年は、毎日、遺影の写真を頼まれましてね。泥だらけの写真を持ってこられて、これを遺影にしてほしい、と。遺族が亡くなった方の話をしてくれるのですが、私も悲しい気持ちになってしまってね。預かった写真の泥をきれいに落とし、普段着の写真をスーツや着物に修正して遺影にしていくんですが、毎日亡くなった方のお顔を見ていると精神的にまいってしまって……。たぶん、そんなときに上柳さんが訪ねて来られたんだと思います。」
「大船渡も復興が進みましたか?」
「そうですね、津波を受けた海側に商店街が完成することはうれしいんですけど、そうなると建築関係に従事した人々が街を去ってしまう。飲食店を利用する人やアパートを借りている人がいなくなることが心配なんです。若い人たちも町から出て行って働き手が少ない。人口も減っているんですよ。」

復興に向けて動いている大船渡市①2017年3月4日

復興に向けて動いている大船渡市②2017年3月4日

復興は進んでいるが、これからが正念場!大船渡の魅力ある街に、いかにしていくか……、佐藤さんの笑顔が、これからの大船渡を物語っている。

20170311_東日本大震災から6年…復興は今_しゃべる(1)

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