本日3/6は加瀬邦彦の誕生日~存命ならば76歳【大人のMusic Calendar】

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ゴールデン☆ベスト-ザ・ワイルド・ワンズ

加瀬邦彦は1941年に東京で生まれたが、慶應義塾高校1年生の秋に神奈川県茅ヶ崎市に移住、それが当地に住んでいた加山雄三との出逢いに繋がる。当時まだ加山は慶応義塾大学2年生で芸能界デビュー以前だったが、加瀬は加山家(本名・池端家、すなわち親である往年の映画スタア・上原謙の大邸宅)に入り浸って、時には泊まり込みながら、そこに揃っていた洋楽レコードを豪華なステレオ・セットで聴きまくり、マルチ天才・加山のギターを借りて直に教わったというのだから、もはや加山の弟だった(加山には妹がいるが、実の弟はいない)。

そして慶応義塾大学に進学後は自らのバンドを結成し、学生のままホリプロに所属して和製エルヴィス・プレスリーの1人であった清野太郎、かまやつひろしとのバンドを経て、かまやつと共にグループサウンズ以前の田辺昭知とスパイダースに参加。乞われて移籍した寺内タケシとブルージーンズでは日本のエレキ・ブームを牽引したベンチャーズと来日公演で共演。その1965年1月5日の大阪公演には、それこそがキッカケでタイガースを結成することになるメンバーたちも来ていた。ブルージーンズでは作曲も手掛けたが、1966年6月のビートルズ来日が大きな転機となる。

ブルージーンズはビートルズ公演の前座の一員となったのだが、理不尽にも前座のメンバーだと肝心のビートルズの舞台を観ることが出来ないとのお達しで、ならばと加瀬はバンドを脱退してまで客席でビートルズを体験したのは有名な話。2001年に出版した自伝的著書のタイトルを『ビートルズのおかげです』としたように、すでにプロとして実績を重ねていたにも関わらず、加瀬の真の音楽的スタートは正にこの時(当時25歳)だった。

そして加瀬には時代の流れを読めるプロデューサーとしての大いなる才覚もあった。生のビートルズ体験後に結成したワイルド・ワンズには日本のプロのバンドとして画期的な点が多々あり、加瀬イズムとでも言うべき先進性がよく分かる。

1)加瀬の才能に一目置いていた内田裕也から一緒にやろうと声を掛けられたのを退けて、新たなメンバーを若者向けの雑誌『平凡パンチ』で募集。これは前年(1965年)にアマチュアの大学生だった加瀬邦彦ならぬ加藤和彦が男性ファッション雑誌『メンズクラブ』でメンバー募集したセンスと合致していた。
そして『平凡パンチ』ルートでは適任者を得られなかったにしても、最終的に決めたメンバーは業界臭い厚顔のバンドマンでは無く、6歳以上も若い戦後生まれの紅顔の音楽少年たちだった。
一方、加瀬にフラれた内田裕也の嗅覚は加瀬のコンセプトの革新的核心を確信し、自分は以前に大阪のジャズ喫茶で見ていた若いバンド、すなわちタイガースを今こそ取り込もうと積極的に動くことになったと思われる。

2)全ての面においてバンマスだったのに、それまでの慣例の如く、バンド名を「加瀬邦彦とワイルド・ワンズ」にはしなかった(後年の再結成ではそのようになったのは何故?)。ビートルズは「ジョン・レノンと彼のビートルズ」じゃなかったからね。
なお、バンドの名付け親は加山雄三で、「自然児」の意と説明されたとしているが、マーロン・ブランドの代表作の1本である映画『乱暴者(あばれもの)』(1953年)の原題は『The Wild One』。ここでのブランドはエルヴィスらにも影響を与えたらしいが、奇しくも劇中で「ビートルズ」とのセリフがある(もちろんビートルズ結成以前。ただしBeatlesじゃなくてBeetlesだが、ビートルズの公式DVD『アンソロジー』でも引用されている)。また、そこでブランドが被っていたような帽子を、直接なのか、(1962年のデビュー・アルバムのジャケットでも被っていた)ボブ・ディラン経由なのか、初期のジョン・レノンも愛用することになっていた訳で、そうしたことでも「ビートルズ的なるもの」を目指すバンドの名前としては興味深い符合。もっとも、そのタイプの帽子は1966年4月のスパイダースのファースト・アルバムでも田辺・かまやつが着用、加瀬自身も後に1969年のワイルド・ワンズのシングル「赤い靴のマリア」で被っているし、加山も加瀬も話題作だった『乱暴者』の原題を知らなかったとは考えられないが、暴走族映画とはバンドのイメージが食い違うせいか、触れられることは無い。

3)あろうことか、レコード会社はデビュー曲をブルージーンズ時代に加瀬が作曲してレコードにもなっていた「ユア・ベイビー」の再録音にしようとした。もちろん加瀬は強硬に反対した結果、まっさらな新曲「想い出の渚」がA面となって世に出たのだが、勝手に決められていたジャケットには加瀬が大きなサイズで写っていた。加瀬はデザインの変更を主張。加瀬は最初の写真の色調や表情に対する不満しか口にしていなかったが、実はビートルズのジャケット写真のコンセプトを踏襲しようとしたものと思われる。
ビートルズのオリジナルLPのジャケット写真は全部メンバー4人が均等のバランスになっている。ビートルズ、そして差し替えられた『想い出の渚』を始めとしてワイルド・ワンズのジャケット写真を確認してみてください。一目瞭然です。

かように、ギタリストとして作曲家としてプロデューサーとして、加瀬の功績には多大なものがあるが、最重要と言うならば、タイガース解散後に低迷していた沢田研二に、飛びっ切りな独自のロック曲「許されない愛」を書き上げて歌わせたこと、と私は断定したい。
この曲のヒットによるジュリーの第一線への帰還が無ければ、お茶の間ロックン・ロールの大傑作「危険なふたり」も生まれず、「GSの一人逆襲」とも言える1970年代のジュリーの快進撃もあり得なかったに違いない。また、世のテクノポップ時代を経て1980年代の幕開けに放たれた「TOKIO」も加瀬の作曲。まさしく加瀬こそは「羊の皮を被った狼」。となればWild Oneと見抜いた加山雄三は、やはり慧眼だったのですね~

加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズin武道館-2006.11.2

【執筆者】小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。今春、太田和彦編著による『本物のシネフィルを育てた伝説の名画座・大井武蔵野館の栄光』出版予定。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある。

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