本日2/21は和製ジェームス・ディーン・赤木圭一郎の命日【大人のMusic Calendar】

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霧笛が俺を呼んでいる,赤木圭一郎

昭和30年代半ば、石原裕次郎、小林旭に続く第三の男として日活のスクリーンに登場した、和製ジェームス・ディーンこと赤木圭一郎。さらなる活躍が期待されていた矢先、不慮の事故により21歳の若さでこの世を去ったのは、1961年2月21日のことであった。それから既に56年もの歳月が流れたが、あまりに早く駆け抜けていったヒーローの名はしっかりと日本映画史に残り、人々の胸に刻まれている。歌手としても代表作「霧笛が俺を呼んでいる」をはじめ、短期間に決して少なくない数のレコーディングをこなした。その歌声はいつまでも色褪せない。

1939年5月8日、東京麻布に生まれ、その後を疎開先の鎌倉で過ごした赤木圭一郎(本名・赤塚親弘)は、1958年に第4期ニューフェイスとして日活に入社。石原裕次郎主演『紅の翼』でスクリーンデビューした。その時はまだ本名によるエキストラ出演であったが、西洋的な風貌がハリウッドスターのトニー・カーチスにどことなく似ていたことから“トニー”の愛称で人気を博し、準主役級で多くの作品に出演。1959年に鈴木清順監督『素っ裸の年齢』で初主演を果たしてからは、「拳銃無頼帖」シリーズや、『霧笛が俺を呼んでいる』『紅の拳銃』など多くの作品に主演した。しかし1961年2月に新作『激流を生きる男』撮影中、昼の休憩時にセールスマンが持ってきたゴーカートに乗って事故を起こしてしまい、緊急搬送される。一時は意識も回復したというが、一週間後に帰らぬ人となってしまった。試乗の際には映画に共演していた、後にフォーリーブスとなる子役時代の江木俊夫もその場にいたそうで、直前に小林旭に危ないからと食事に連れて行かれ、食堂で外の騒ぎを聞いて事故を知ったという。

映画と並行して、歌手としては日本グラモフォン(=ポリドール、現・ユニバーサル)の専属となった赤木は、25曲のレコーディング曲を遺した。同時期に同レーベルで活躍していた西田佐知子とのカップリングが目立つ。最もヒットしたのは映画と同タイトルの主題歌「霧笛が俺を呼んでいる」。ほか、『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』主題歌の「黒い霧の町」、やはり映画と同名の「男の怒りをぶちまけろ」など。宍戸錠と共に歌われた「トニーとジョー」という曲もある。没後も追悼盤として多くのアルバムやフォノシートが発売された。そんな歌う俳優の仲間で、会社は違えど交友があったのが東宝の加山雄三である。芸能雑誌の対談で知り合った二人は、加山の方が年は2つ上ながらも、映画界でのキャリアは赤木の方が少し長く、湘南育ちの境遇や趣味なども合って意気投合した。ある日、取材の現場を抜け出したふたりは、赤木の運転するオープンカーで横浜へ行き、港に車を止めていつか一緒にタヒチへ行こうと約束を果たしたそうだ。自由のないスター同士の心の嘆きであったろう。

LIFE,加山雄三-with-ザ・ランチャーズ

加山が後に述懐した話によると、その日の晩、横浜に向かう車中で印象に残る出来事があったという。加山が助手席で寝ていると突如急ブレーキがかかり、赤木が「黒猫をはねてしまった。縁起でもない。」と頭を抱えた。しかし車を降りて調べてみてもその気配はない。幻想だったのか…。それから一ヶ月もたたないうちに赤木が事故で亡くなり、ゴーカートでの顛末が黒猫の話と結び付いてゾッとしたのだった。そのことを思い出す度に胸のしこりが疼くと綴った加山は、後に赤木との想い出を歌にしている。1997年に発表されたアルバム『LIFE』に収録された「夕映えのスクリーン」がそれで、山川啓介による詞は正にその横浜での出来事をモチーフにして、ふたりのスターのかけがえのない友情を描いている。赤木のファンと加山のファンから共に愛されている素敵な歌の存在を知って欲しい。

【執筆者】鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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