最後の言葉は、息子を託す遺言・元ロッテ監督・山本功児(享年64歳) スポーツ人間模様

10000000000000029456_20160425084022057083_P1203063322021

本当に惜しい人を亡くしました。元ロッテ監督山本功児さん

まだまだ若い64歳。巨人、ロッテであわせて13年間プレー。
引退後はコーチ、監督など指導者を歴任しました。
本来なら、まだまだユニホーム姿で熱血指導をする姿が見られたことでしょう。
しかし、2008年から慢性心不全など、入退院を繰り返していたそうですが、肝臓がんのために23日に亡くなりました。

社会人の本田技研鈴鹿から、75年のドラフト5位で巨人へ入団。
実は兵庫・三田学園時代の69年にも、南海からドラフト3位指名を受けましたが、拒否して法政大学へ進学しています。

オールドファンの記憶に残る、巨人の背番号44は、素晴らしいバイプレーヤーでした。

「他のチームなら、クリーンアップ間違いなし」といわれたものの、同じチームの1塁には、王貞治というあまりに大きな存在があった。
そこで出場機会を求めて、外野手も兼任しますが、とにかく巨人は選手層が厚い。
王引退後も、中畑が3塁から1塁へコンバートされるなど、常にナンバー2の立場は変わりがなかった。
それでも、巨人の第43代4番として、7試合に出場。
チャンスに強く、打率は3割7分2厘、2本塁打でした。

とりわけ、印象的だったのは、広島戦の強烈なヤジ。
とりわけ、代打が告げられると、スタンドから「にせコージ」の連呼が飛んできました。
ミスター赤ヘル・山本浩二と姓名が同じ読みだったのです。

そうはいっても、法大の先輩にあたるだけに、「ニセといわれるのも、偉大な先輩がいるから。バッターボックスに入る前、そのヤジが良く聞こえた。だけど、にせコージなんてセンスがいいよ」と苦笑していたらしい。

ナンバー2から脱却したのは、1984年に三宅宗源とのトレードでロッテへ移籍してからです。
この年、初めて規定打席に達して、3割1厘をマーク。
1984、1985年と2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)に輝きました。
ロッテでは、勝負強さを発揮したのは満塁の場面。
現役引退の前年の1987年4月17日の近鉄戦では、パ・リーグ初、代打の代打で逆転満塁ホームランを放っています。

1984-1988年は満塁での打率が4割3分2厘。
引退後は、コーチ、2軍監督を経て、1999年から4シーズン、監督をつとめました。

そんな山本氏の夢は、昨年の育成ドラフトで、横浜DeNAに入団した、長男・武白志(むさし)が1軍で活躍する姿を見ることでした。
手塩にかけて育て、九州国際大付属高へ進学すると、寮生活になじめず、体重が15キロもゲキ減したことから、夫人とともに、福岡へ移住するほどの子煩悩。

他界する2週間ほど前には、巨人時代のチームメートで、横浜DeNA・高田繁GMへ「厳しくやってくれ。と電話があった。元気そうだったのに…」。
最後の言葉は、息子を託す遺言になったのです。

(原文)青木政司

4月25日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」