お父さんの青春が復活!日活ロマンポルノ45周年【やじうま好奇心】

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ことしは“日活ロマンポルノ”誕生から45周年!
それを記念して今月から、有名映画監督による、日活ロマンポルノの最新作が劇場公開されています。

日活ロマンポルノ

そこできょうのやじうま好奇心では「日本映画におけるロマンポルノ」という視点で文化や歴史、時代背景を振り返っていきます。
1960年代の高度経済成長期が過ぎて、映像の娯楽は「映画館」から、お茶の間の「テレビ」に移行。
映画業界は衰退の一途をたどります。
そして日活ロマンポルノが誕生した1971年(昭和46年)、映画界では大きな変革を迫られていました。
1969年、最後の映画スター市川雷蔵の死去によって大映は1971年に経営破たんを迎えます。
また東宝も人気を呼んだ「4大シリーズ」が続々終了。(「駅前シリーズ」は1969年「社長シリーズ」は1970年「クレイジーシリーズ」も1971年に「若大将シリーズ」も1971年にそれぞれ終了)
1971年に東宝は専属俳優の一斉解雇に踏み切り、他の映画会社の作品には出演してはいけないという「五社協定」が崩壊しました。

そんな映画界にとって一番苦しかった1971年、日活も50億円の負債を抱え、映画製作すらできない状態でした。
そこで日活は、生き残りをかけて「成人向け映画」の制作をスタートさせます。
それが「日活ロマンポルノ」。

当時からいわゆる「ピンク映画」というのはありましたが、似て非なるものではありますがそれを大手映画会社「日活」がやる。周りも驚きましたが、社員も驚いた。
この決断に、およそ300人の社員が辞表を提出してやめていったそうで、残った社員の方が少なかったといわれています。

第1作「団地妻 昼下りの情事」(白川和子主演)大ヒット。その後、次々と作品が作られていった。
翌年1972年「日活ロマンポルノ」は、わいせつだとして警視庁が摘発に乗り出しましたが、このことが反対に人気に拍車をかけていきます。
摘発された作品の主演女優が何度も法廷に出向き、それを新聞や週刊誌が報道。
この1972年はどんな時代だったかというと、下火になりつつあったとは言え学生運動が盛んでした。(翌年、あさま山荘事件)
権力に立ち向かうロマンポルノを、当時の大学生たちが支持するという図式が出来上がっていきました。

さらにこの年、映画雑誌「キネマ旬報」が選ぶ日本映画ベストテンで、「栗原小巻主演の忍ぶ川」や「男はつらいよ・柴又慕情」などに交じって「日活ロマンポルノ」2作品がラインクイン。(第8位に「 一条さゆり濡れた欲情」第10位に「白い指の戯れ」)
たんなる裸を見せるわいせつな映画ではなく映画としての娯楽性、芸術性を「キネマ旬報」が認めました。

その質の高さの裏には、日活が定めた「映画作りにおけるルール」がありました。
①映画の長さは70分以内
②撮影期間は7~10日以内(通常は3週間)
③予算は750万円(通常3,000万円)
④10分に1回濡れ場

これだけ見ると「安くて、手軽に、Hな作品」と考えてしまいますが、日活ロマンポルノは、どれもストーリーがしっかりしていて、それでいて社会風刺も行っている。
そのストーリーを表現しつつ「10分に1回濡れ場」というのは、相当難しい。
逆に言えば、それだけ作り甲斐があるということです。

その厳しい条件のもと、「日活ロマンポルノ」からは多くの映画スタッフが腕を磨きました。
「Shall we ダンス?」の周防正行監督や「セーラー服と機関銃」の相米慎二監督、「おくりびと」の滝田洋二郎監督など、「ロマンポルノ」で修業しその後、一般向けの名作の数々を世に送り出していきました。

その「日活ロマンポルノ」はアダルトビデオの登場で1988年に幕を下ろします。
1971年から18年間で作られた作品、その数1,100本。

日活ロマンポルノもアダルトビデオも、全て同じ猥褻と言われれば、そうなんですが、「日活ロマンポルノ」には、映画人の魂や技術、哀愁が詰まっています。

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11月28日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

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