1986年の今日、うしろゆびさされ組「渚の『・・・・・』」オリコン1位獲得 【大人のMusic Calendar】

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1986年の今日、9月8日のオリコンチャート1位を飾ったのは、うしろゆびさされ組の4枚目のシングル、「渚の『・・・・・』」である。ややこしいですが、「 」内が曲名。「なぎさのかぎかっこ」と読みます。

従来おニャン子クラブ関連のコラムが筆者に回ってくる際は、専らソニー系。正統派アイドルとしての位置付けから時として意欲的な作品が生まれ、アイドル音楽愛好家の間で通受けするに至ったケースが多いソニー系おニャン子に比べると、母体を擁するキャニオンレコード(現在の社名・ポニーキャニオンとなったのは、意外ではあるが『夕やけニャンニャン』放映終了直後の87年10月のことである)からのおニャン子プロダクトは、徹底的にアトラクション志向。ふつーのシャイな男の子の心を平然と鷲掴みにする楽曲を次々と市場に送り出した。86年のこの日の翌日、最早伝説となってしまったプリンス初来日公演を横浜スタジアムで観た当時の筆者にとっては、その青さが恥ずかしくてたまらなかったのだけど、それでもどっこい、曲の方はちゃんと脳裏に残っている。それがヒット曲の証しというものだ。

おニャン子会員番号16番・高井麻巳子と、19番・岩井由紀子(ゆうゆ)が組んだユニットが、うしろゆびさされ組である。

おニャン子本体が「セーラー服を脱がさないで」でデビューして早くも3か月後の85年10月5日、ユニット名と同じタイトルの曲でシングルデビューを飾っている。これは同じフジテレビ系列で10月12日から放映開始されたアニメ『ハイスクール! 奇面組』のテーマ曲のタイアップが、『夕ニャン』のディレクターの元に持ち込まれたことに起因している。当時のキャニオンは、所属歌手を親会社であるフジのアニメのタイアップに起用する手法で、従来のアニソン市場と一線を画すマーケティングを成功させ始めており(岩崎良美「タッチ」などが代表例)、そこに上り調子のおニャン子をはめ込むことで、お互いの人気を盛り上げる相乗効果を狙ったと思われる。おっとり系の高井と天然系のゆうゆという、まるでアニメキャラそのものの二人が起用されたのは、きっと周到な計算の結果だろう。結局、その後うしろゆびが発売したシングル5枚全てが『奇面組』のオープニング・エンディングに起用されることになり、アニメファン層にも大いにアピールした。87年4月には、高井麻巳子がおニャン子を「卒業」したことでユニット解消となるが、後続ユニットとして工藤静香・生稲晃子・斉藤満喜子からなる「うしろ髪ひかれ隊」が結成され、最初の2枚のシングルが引き続き『奇面組』のタイアップに起用された。

この、大所帯アイドルユニット内別働隊という概念は、のちにモーニング娘。から派生したタンポポやプッチモニの成功、さらに同じハロー! プロジェクトに所属する別のグループのメンバーまで巻き込んでの「シャッフルユニット」によってさらに推し進められ、おニャン子の発展型というべきAKB48に引き継がれていく。AKBから誕生した「渡り廊下走り隊7」のネーミングについついうしろゆびやうしろ髪を思い出し、胸がキュンとしてしまった人も少なくないと思われる。

さて、うしろゆびの話に戻るが、2枚目のシングル「バナナの涙」、続く「象さんのすきゃんてぃ」と、アニメのタイアップ曲でありながら、うら若き乙女の口から期待するのも烏滸がましい、タイトルからしてちょいエッチな曲(しかしいずれもオリコン1位)をあてがわれてきた二人にとっては、正統派サマーソングと受け取れる「渚の『・・・・・』」はどうやら本望だったようだ。と言っても、伏字部分の醸し出す赤面感は、山口百恵「美・サイレント」(79年)をより処女っぽくしたと言おうか。
当時のチャート記録を見ると、前週1位に初登場していた斉藤由貴「青空のかけら」の初動の2倍以上となる数字を叩き出し1位に初登場しており、安定したおニャン子パワーが伺える。しかし翌週には、当時「桃子派」を自認していた筆者でさえ相当の問題作と感じた「Say Yes!」に1位を奪われてしまうのである。アルバムチャートでは、別の意味で「問題作」として物議を醸した中森明菜『不思議』が3週目の1位に居座っており、その後ろに当時史上初のCD先行リリースアルバムとして話題を呼んだビリー・ジョエル『ザ・ブリッジ』が付けている。時代は着実に変わりつつあった。

前述の通り、高井のおニャン子卒業でユニットとしては解散してしまうが、高井はしばらくソロ活動を続けた後、88年5月におニャン子の仕掛人・秋元康と電撃結婚。昭和アイドル史の終幕として多くの人の心に焼き付くと共に、現代のアイドルファンの多くをもいつ同様の事態が訪れるかと怯えさせる、重要な「分岐点」となった。一方、87年8月の『夕ニャン』放映終了と共におニャン子という後ろ盾を失ったゆうゆは、よりバラエティ色の濃い活動に進出。91年にタイトーからリリースされたアーケードゲーム『ゆうゆのクイズでGO! GO!』でのメインキャラクターとしての姿は、現在もゲーセンの片隅で黙々と続くアーケードクイズゲームのパイオニアとしてもっと評価されるべきである。

【執筆者】丸芽志悟

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