大人のMusic Calendar

12月14日は上原“ユカリ”裕の誕生日~村八分、ココナツ・バンク、シュガー・ベイブ、ナイアガラで活躍した伝説のドラマー

【大人のMusic Calendar】

「上原ユカリ」(本名・上原裕)というドラマーの名前を知ったのは、1973年9月21日に行われたはっぴいえんどの解散記念コンサート“CITY—Last Time Around”(東京・文京公会堂)でのことだった。伊藤銀次率いる「ココナツ・バンク」の一員として登場したドラマーが上原ユカリだった。「ごまのはえ」というバンド名を改めたばかりのココナツ・バンクは、オリジナル曲「日射病」と「無頼横丁」を演奏したほか、ソロアーティスト・大滝詠一のバックバンドとして、「空とぶ・ウララカ・サイダー」「ココナッツ・ホリデー」を披露した。当時高校生だったぼくは、この日出演した松本隆の情感的なドラミングや林立夫の理知的なそれとはひと味違う、明るく饒舌な上原ユカリのパフォーマンスに強く惹かれた記憶がある。「日本のロック」が「日本のポップス」へと転換する道標となったこの日のイベントを象徴するようなリズムを、上原ユカリは渾身の力を籠めて叩きだしていたのである。

京都出身の上原ユカリがドラムを始めたのは14歳だったといわれている。1953年12月14日生まれだから1967〜68年のことだ。1969年に大阪・難波元町に大塚まさじが開店した喫茶店「ディラン」に出入りするうちにギタリストの伊藤銀次と出会い、1970年夏には伊藤銀次などと「Grass Brain」を結成して大阪や神戸のディスコ(ゴーゴーホール)やキャバレーのハコバンを務めた。高校は中退してしまったというから、弱冠16歳にしてプロへの道を歩み始めたことになる。「ユカリ」というアーティスト名は、60年代にマーブルチョコ(明治製菓)のCMキャラクターで有名だった少女タレント・上原ゆかりに因んで学校の先輩に名付けられたニックネームに由来するという。

1971年、チャー坊(柴田和志)に誘われて伝説のバンド「村八分」に二代目ドラマーとして加入、「草臥れて」などの楽曲をスタジオで録音している。これは村八分にとっても上原ユカリにとっても記念すべき初のレコーディングだったが、当時は発売されることなく終わった(1991年にミニアルバムとしてCD化)。


1972年には伊藤銀次率いるサザンロック系サウンドのバンド「ごまのはえ」に参加し、「春一番」などのイベントに出演していたが、ベルウッドレコードの三浦光紀の知遇を得て、同年9月にデビュー・シングル「留子ちゃんたら」をリリース。このシングルが大滝詠一の目に止まり、その年の暮れにはバンド丸ごと上京して大滝詠一の拠点だった福生に移り住み、大滝プロデュースの下でのアルバム制作を目指して猛練習を重ねた。福生時代には布谷文夫『悲しき夏バテ』(1973年)の録音に参加したほか、布谷のバックバンドとしても活動したが、結果としてアルバム制作には至らなかった。冒頭で触れたはっぴいえんどの解散ライブ直前にメンバーを入れ替え、「ココナツ・バンク」と改称して再始動を計ったものの、ライブ出演直後に解散の憂き目に遭う。


ココナツ・バンク(ごまのはえ)は、バンドとしての成果は残せなかったものの、『悲しき夏バテ』や『ライブ・はっぴいえんど』(はっぴいえんど解散ライブの実況盤・1974年)などで示された伊藤銀次と上原ユカリの存在感は注目を集めた。当時シュガー・ベイブを率いていた山下達郎はとくに上原ユカリのドラムにぞっこんで、彼らのアルバム『SONGS』(1975年4月)ではメンバーである野口明彦をはずして(野口担当は3曲のみ)、メンバーでもない上原ユカリをメインで使っている(クレジットは「上原裕」)。1975年4月には伊藤銀次と上原ユカリが揃ってシュガー・ベイブに正式参加したが、実のところ山下達郎が欲しかったのは上原ユカリだけだったという。伊藤銀次と一緒でなければ上原ユカリが動きそうになかったので、「二人セット」での参加を提案したらしい。そのことに気づいた伊藤銀次は2か月後に自らシュガー・ベイブを離れている。



上原ユカリの才能に惹かれたのは山下達郎だけではなかった。大滝詠一も『ナイアガラ・ムーン』(1975年)収録の全12曲中5曲で上原ユカリをドラマーとして使っている(アーティスト名はやはり「上原裕」)。当時の大滝は、「ニューオリンズ系リズムを叩けるドラマーはユカリしかいない」という思いがあり、『ナイアガラ・ムーン』のコアとなる「三文ソング」や「楽しい夜更し」といったセカンドライン色の濃い作品に起用している。ニューオリンズ風テイストに満ちた初期ナイアガラ・サウンドにとって上原ユカリは不可欠のプレイヤーで、本作以外でもCM楽曲を含む大滝の作品に数多く参加している。


村八分、ココナツ・バンク、シュガー・ベイブ、ナイアガラなどと遍歴を重ねるなかで成長した上原ユカリは、1970年代後半には押しも押されもせぬスーパープレイヤーとして広く認知されるようになり、りりィ(&バイバイセッションバンド)、荒井由実、ハイ・ファイ・セット、井上陽水など数々の著名アーティストのサポート・ミュージシャンとして大活躍した。1980年には、沢田研二のバックバンド「Exotics」に参加してテレビにも頻繁に出演したが(この時期のアーティスト名は「上原豊」)、1986年には活動を休止してしまった。その後1996年に復帰、今も現役の一流セッションプレイヤーとして数多のアーティストの活動を支えている。

なお、現在の正式なアーティスト名は「上原“ユカリ”裕」である。

【著者】篠原章:批評.COM主宰・評論家。1956年生まれ。主著に『J-ROCKベスト123』(講談社・1996年)『日本ロック雑誌クロニクル』(太田出版・2004年)、主な共著書に『日本ロック大系』(白夜書房・1990年)『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン社・2000年)など。沖縄の社会と文化に関する著作も多い。

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