1984年の今日、チェッカーズ「星屑のステージ」(4th single)リリース 【大人のMusic Calendar】

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1984年8月23日、チェッカーズ「星屑のステージ」が発売された。デビュー以来4枚目のシングルとなる。

1984年の日本の音楽シーンをひと言で語るなら「チェッカーズの年」といえるだろう。前年9月21日に「ギザギザハートの子守唄」でデビューした彼らは、当初はセールス的に奮わなかったものの、2作目の「涙のリクエスト」の大ヒットによりブレイク。相乗効果で「ギザギザハート~」もチャートを駆け上がり、3作目のシングル「哀しくてジェラシー」が発売されると、3作同時ベストテン入りを果たす快挙を成し遂げた。ダブダブのチェック柄の衣装とヴォーカル藤井郁弥(現・藤井フミヤ)の前髪を長く垂らした独特のヘアスタイルは男性ファッションに大きな影響を与え、チェッカーズは瞬く間に社会現象と化した。彼らの次なる一手は何か、多くの注目の中でリリースされた楽曲が「星屑のステージ」であった。

作詞:売野雅勇、作曲:芹澤廣明のコンビは「涙のリクエスト」以来3作目。他界した恋人に向けて歌うロック・スターという、少女漫画的な悲恋のシチュエーションは女性ファンの心に熱く刺さる内容で、楽曲は前サビで始まるマイナー・コードのハチロク(8分の6拍子)ロッカ・バラード。藤井郁弥の天性の声と上昇旋律で伸びやかに放たれるヴォーカル・テクニックは素晴らしく、テレビ番組などではロックンロールのセンスに長けたバンドの演奏、ことに郁弥の実弟・藤井尚之の哀愁サックスがドラマチックに盛り上げた。従来のチェック衣装から、この曲では黒一色で統一していたことも忘れがたい。

ハチロクのロッカ・バラードは、50Sや60Sのオールディーズの定番スタイルだが、日本人がマイナー・コードでこれをやると演歌っぽくなってしまうことが多い。実際、この曲のAメロもその後吉幾三が「酒よ」で応用していると話題になったほど。最後のサビで転調するあたりが如何にもの展開だが、郁弥のヴォーカルの質感をもって、ドメスティックになることを回避している。

チェッカーズは福岡県の久留米で結成されたアマチュア・バンドで、81年にヤマハ主宰のライト・ミュージック・コンテストのジュニア部門で最優秀賞を獲得した。当時のレパートリーはロカビリー、ドゥー・ワップといったオールドスクールなロックンロール。ヤマハに所属となった彼らは83年春に上京、ヤマハの寮でレッスンに励んでいた。

キャニオンの吉田就彦ディレクターのコンセプトは、「横浜銀蝿とシブがき隊の間を行く、明るい不良」だった。チェッカーズの人気沸騰ぶりは、60年代のグループ・サウンズの熱狂を思い起こすものがあったが、芹澤の書く楽曲はGSのもう一時代前、ロカビリーの雰囲気を80年代的に再現しているともいえた。芹澤はGSグループの「バロン」のギタリスト出身だが、バロンは元々尾藤イサオのバック・バンドで、芹澤の曲想には常にロカビリー的なものがベースにある。メンバーに「小林旭の歌みたい」と言われた「ギザギザハートの子守唄」にしても、「悲しき願い」の尾藤イサオが歌ったと考えると、しっくり来るものがある。時代的にもシャネルズ、横浜銀蝿といった、不良スタイルのロックンロールが人気を獲得し、ネオ・ロカビリーのムーブメントや何度目かのロックンロール・リバイバル熱が高まっていたことも人気を後押しした。

戦略面で見るとチェッカーズの成功は、フジ=サンケイグループの主導で、グループの一角であるキャニオンとフォーライフのアーティストからChar、原田真二、世良公則&ツイストを「ロック御三家」的な売り方でブレイクさせた方法論に再びトライした形ともいえるだろう。ことにツイストとはヤマハ=キャニオンの組み合わせや、バンドのメイン・ヴォーカルが爆発的なアイドル人気を獲得した点など共通項が多い。世良はハスキーな声質と男性的な色気でファンを虜にしたが、郁弥は逆に可愛らしいルックスと、ロックンロールを自然に体現するノリのいいヴォーカルが魅力で、そのセクシーな声質には男女を問わず聴く者を虜にする魔法があった。

実は、「涙のリクエスト」から5作目の「ジュリアに傷心」まではデビュー前の段階で楽曲が完成していた。人気が過熱する中で、バラード曲を持ってくるリリース戦略も見事なのだ。

だが、ファースト・アルバム『絶対!チェッカーズ』、そして同年末に発売されたセカンド『もっと!!チェッカーズ』を聴いた熱心なファンやロックンロール好きの間では、アルバムに収録されたグループの自作曲のほうがロックンロールではないか、と語られていた。ヒットを要求されるアイドルと、通を喜ばせるマニアックな音楽嗜好の狭間で戦いながら、メンバーは、自身での曲作りや演奏の腕を磨いていく。自作曲がシングルA面に採用されるのは86年、12作目の「NANA」まで待つことになる。

【執筆者】馬飼野元宏

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