ご存じですか?世紀の大誤報『元號は「光文」』 【ひでたけのやじうま好奇心】

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先ごろ天皇陛下が、ビデオメッセージで、生前退位の御意向を示されましたね。
仮に、この生前退位が実現したとすると、当然、「元号」が改元されることになります。
そこで今日は、「元号」にまつわるちょっと意外な話を、あれこれとご紹介いたしましょう。

さて、この「元号」が初めて使われたのは、西暦645年、「大化の改新」でお馴染みの「大化」(たいか)。
この「大化」から「平成」まで、元号の数は、全部で「247個」もあるのですが…
我々にとって馴染みが深いのは、やはり、西暦1868年を元年とする、「明治」からですよね。

じゃあ、この「明治」という元号。
「誰によって」「どのようにして」選ばれたのか、ご存じでしょうか?
明治神宮のHPには、こんな文章が綴られています。

「明治改元にあたっては、(※中略)宮中賢所において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて、御選出されました。」

要するに、かの明治天皇が「くじ引き」によって「明治」を引き当てられまして、それがそのまま、新元号に決まった…ということなんです!
この話、明治時代を生きていた人たちにとっては常識だったそうですが、今や、ほとんど知られていません。
まさに「明治は遠くなりにけり」といったところでしょうか。

続いては、西暦1912年から始まった、「大正」です。
この「大正」に関していうと、大正天皇が宝算(ほうさん)48の若さで崩御されまして、大正時代が終わらんとしていたまさにその時「元号にまつわる一大事件」が起こっているんです。
その事件こそ… 知る人ぞ知る「『光文』事件」という、“大誤報”事件なんです!

いったいどんな事件だったのか?ことの経緯を説明しますと…
西暦1926年(大正15年)12月25日午前1時25分、大正天皇が葉山の御用邸で崩御されました。
わずか数時間後に発行されたこの日の朝刊では、どの新聞も大見出しで、天皇崩御という大ニュースを
伝えました。

ところが…
「東京日日新聞」(※現在の毎日新聞)という新聞だけは、ひと味もふた味も違いました。
なんと、号外でもって、いち早く「新しい元号」を報じたんです!
当時の号外の見出しには、こうあります。

『元號は「光文」』!

東京日日新聞
⇒『東京日日新聞』(大正15年12月25日発行)の号外。「元號は「光文」」とある。

さらに『東京日日新聞』は、この日の朝刊最終版でも、こんな見出しを打ちました。
『元號制定「光文」と決定』

記事の本文には、こうあります。
『枢密院緊急臨時本会議が元号制定の件について慎重審議した結果、『光文』『大治』『弘文』などの諸案があったが、左の如く決定した=『光文』」

これが事実ならば、世紀のウルトラ大スクープです。
読者は、あまりの情報の速さに仰天!
他の新聞社の記者たちは、みな切歯扼腕、悔し涙にくれたそうですよ。

ところが…この日の午前中に発表された「新元号」は、「光文」ではありませんでした。
「光」の字もない!「文」の字もない!
そう…「昭和」だったんです!

こうして、世紀の大スクープは、一転して、世紀の“大誤報”となりました。
『東京日日新聞』社内は、責任をめぐりまして大紛糾!
当時の社長が辞意を表明する事態にまで発展したんです。

いったい、なぜ、こんな「誤報事件」が起きてしまったのか。
可能性は、大きく分けると、ふたつあります。
ひとつめは、取材過程における過誤により、誤った情報が出てしまった… というもの。
でも、天下の「東日」がこんな凡ミスをやらかすとは、ちょっと考えにくいものがありますよね。

では、もうひとつの可能性はなにか… ?
ズバリ言うと『東京日日新聞』が速報を打ったことにより、慌てた政府筋が急遽「光文」から「昭和」に変更した…というもの!
「マスコミに『光文』が先に出てしまったのは、いかにもまずかろう。」
「情報が漏洩した以上、別の元号にするよりほかはない。」
…そんな思惑が働いたのでは…というわけです。

実際、東京日日新聞社の後身、毎日新聞社の『毎日新聞100年史』では「速報による変更」…
すなわち、「光文」を速報したことにより元号が急遽変更されたと、“ほぼ”断定しているんです。

そして、この判断を裏付ける傍証も、いろいろあると言われているんです。
ただし、関係者のほとんどが鬼籍に入っている今となっては「真相」はやぶの中ですが…。

ちなみにこの「光文事件」には、ちょっとした後日談があります。
元号が、「昭和」から「平成」に改元されたとき… すなわち、昭和64年1月7日の話なのですが、心揺さぶられる「記者魂」というようなものが、強烈に浮かび上がるエピソードがあるんです。
「『毎日』の3世紀」(毎日新聞社)という分厚い本から、ご紹介しましょう。

大正から昭和への改元のとき、毎日の前身である東京日日新聞が、他紙に先駆けて『新元号は光文』と打った。
異論はあるものの、それを知った政府が『昭和』に変えたとも言われている。
いずれにしても、結果として『光文』は幻のスクープに終わった。
それから62年。政治部の全員が『光文の時の恨みをはらそう』と燃えた。

午後2時前になって、待ちに待った電話連絡が入った。
ある記者が、新元号を入手したのである。
『取れた。へいせいだ。字は平和の平らに、成田の成だ。』
さらにその後、別の部員から「平成で間違いない」との確認情報も入った。

この速報は、読者層の一番多い夕刊3版から入った。
小渕恵三官房長官(当時)が記者会見で正式に「平成」を発表したのはそれから30分以上も後の午後2時36分のことである。
他社は小渕長官の会見を聞いて最終4版に入れるのがやっとだった。

……約30分間の差、版立てで言えば1版の差ではあったが、63年ぶりに「雪辱」を果たすことが出来たのである。」

…まさかの屈辱から、恩讐実に63年! なんとも熱い話だと思いませんか?
「元号」にまつわる意外な話を、ご紹介しました。

8月17日(水) 高嶋ひでたけのあさラジ!三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

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