勤続36年! サラリーマン・アナウンサー「上ちゃん」の働き続けるための秘訣

36年間、ラジオ局ニッポン放送でサラリーマンとして定年まで勤めあげた「上ちゃん」こと上柳昌彦アナウンサーの自伝的エッセイ『定年ラジオ』(三才ブックス)が、今年8月27日に発売してから2度の重版が決定している。

1981年にニッポン放送に入社してから、笑福亭鶴瓶、ビートたけし、タモリ、明石家さんま、といった著名人とのラジオでの逸話。2017年8月31日に定年退職を迎えるまでの歴史。定年の月の中旬に“前立腺がん”が発覚し、手術の末、レギュラーラジオ番組『上柳昌彦 あさぼらけ』に復帰するまでの経緯など。サラリーマン・アナウンサーの、決して美談だけではなかった人生が著書に綴られている。華やかといわれるフリーアナウンサーへの転身をせず、定年退職のその日まで一つの会社に身を置き、がんに侵されても、なおマイクの前に座り、何故働き続けるのか。どうすれば、信念がぶれずに一つのことをやり遂げられるのかを上柳アナウンサーに聞いた。

■ “働き続けよう”と意識したことがない
続けようと思って続けたわけではなく、また、36年も経った実感がないんですよ。番組がよく変わっているので、その度に転校しているような。転校生のようだったので、ずっと一つのことを黙々としてきた意識はあんまりないんです。他局から「うちでやりませんか?」と誘われたこともありましたが、先輩に恵まれていて『この人たちと一緒に仕事がしたい』という思いがあったのでお断りしました。

■ “一緒に仕事がしたい”と思える同僚がいる、幸せな環境
番組ディレクターなど、先輩や同僚に恵まれていて、“一生懸命なこの人達と一緒に仕事をしたい”と思っていたので、転職やフリーアナウンサーになることを考えることがありませんでした。何度も番組を一から立ち上げてきましたが、仲間たちと一生懸命にゼロから作るということは、やっぱり楽しかったですね。そういうことを繰り返していたらあっという間に時間が経ちました。番組を立ち上げるって、なかなか面白いんですよ。ラジオ局のアナウンサーになることよりも、ラジオ局に入りたかったんです、きっと。だから、“辞めよう”って思ったことはないんですよ。

■突然の番組終了。出社をしても“仕事がない”という経験も
――1986年から1990年まで、音楽番組「HITACHI FAN! FUN! TODAY」「ぽっぷん王国」を担当し、久保田利伸、桑田佳祐、山下達郎など数々の有名アーティストと顔を合わせる華やかな日々。ところが、予算の関係でスポンサーが降り、同時に番組も終了。1990年の春、アナウンサー暦9年目にして仕事が無くなってしまった。

会社に行っても何にもやることがなく、ぼんやりとしていた。素晴らしいアーティスト達と日常的に仕事をして、私の番組に来てくれて仲が良くなり、ニッポン放送主催のコンサートがいっぱいあって、『全部俺が絡んでいるな~』なんて思ってしまうような妙な自信があった中、いきなり番組がなくなってしまった。本当に、何も仕事がないわけです。一週間で40秒のニュースがたった一本だけ。この時の喪失感はかなり大きかったですね……。

■一回り以上歳の離れた若い同僚の“一生懸命さ”に感化されて
1994年に始まった番組「上柳昌彦の花の係長 ヨッ! お疲れさん」は、19時からの放送だったので『大人の人に向けてしゃべるには、どうしたらいいだろうか?』というのを本当によく考えました。番組スタッフともすごくディスカッションをしながら、本当に毎日毎日話し合っていた。
その中に、「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」のハガキ職人さんで、確か高校を卒業して放送作家養成の専門学校に通っていた、見習い作家の“石川くん”という子がいて。格好も、半ズボンみたいなものをはいてね(笑)。彼はすごく優秀な人だった。番組を作ることやラジオが好きでね。自分より年下な人で、一生懸命な人を見ていたら、チームでやっているという意識を強く感じました。だから、この番組はお仕事というよりもクラブ活動みたいな感覚だったかもしれません。

編集部からの「どうすれば働き続けられるのですか?」という質問に、「続けようと思って続けたわけではない」という言葉がすぐに返ってきて、仕事の面白さを語る時には、関わった有名人の名前よりも「先輩」「同僚」「後輩」という言葉が必ず出てきた。一回り以上歳の離れた後輩“石川くん”の話をする時も、前のめりになっていたのが印象的だった。

上柳アナウンサーへの取材後、現在は数々の人気番組を手がけるベテラン構成作家となった“石川くん”こと石川昭人氏に話を聞いた。毎日ディスカッションをして、一体どんな密なやり取りがされていたのか質問すると、「話し合い? 毎晩毎晩、スタッフ皆で居酒屋に行って、カラオケをしていた。もしかしたら、その中で番組に関する話し合いもあったのかもしれないけれど……」という答えが返ってきて驚いた。しかし、話し合っていた内容まで覚えていないのもそのはずで、当時は20歳そこそこ、「ヨッ! お疲れさん」は石川氏のデビュー作、放送局の右も左も分からず、言われたことや要求以上のことをするので必死だったという。「番組はプロ野球のナイター中継がない時期に放送する、“半年だけ”の放送枠だから、とにかく毎日必死。土日は図書館にこもって、全国の新聞を読みあさって皆とは違うネタを探していた」と、当時のことを教えてくれた。上柳アナウンサー本人の、何かを成しとげる能力の高さと共に、懸命に、必死に、楽しく働いている仲間がいつも近くにいたことも、定年まで定年以降も働き続けられる理由ではないかと思った。

上柳昌彦アナウンサーの自伝的エッセイ『定年ラジオ』は、三才ブックスより定価1404円で好評発売中。校閲なしで出版に至ったため、重版のたびに誤字を書き改めているという。最後に「病院のベッドで必死に第2版のために書き直した」というエピソードを笑いながら語ってくれた。最新のものは、ほとんどの誤字が修正されているという。気になった方は、ぜひ一度手にとっていただきたい。

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