今季限り引退の中日・浅尾は酷使に潰されたのか?

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今日の「スポーツアナザーストーリー」は、今シーズン限りで引退の意向を示した、中日ドラゴンズ・浅尾拓也投手にまつわるエピソードを取り上げる。

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8回に登板した中日・浅尾 ナゴヤドーム=2018年8月16日 写真提供:共同通信社

ドラゴンズの中継ぎエースとして活躍した浅尾が、今季限りでユニフォームを脱ぐ決断をしました。近く会見が行われます。

浅尾と言えば、落合監督時代の2010年・11年に、絶対的守護神・岩瀬につなぐセットアッパーとしてフル回転し、チーム初のセ・リーグ連覇に貢献。この2シーズンの登板数は、72試合・79試合ですが、その年はチーム試合数の半分以上となる151試合に登板し、そのほとんどがチームを勝ちに導くマウンドだったのです。

アマチュア時代は、それほど目立つ存在ではありませんでした。もともとはキャッチャーでしたが、愛知県立常滑北高校時代にチーム事情からピッチャーに転向。日本福祉大学時代も、登板していたのは陽の当たらない、愛知大学リーグの2部・3部でした。

中部国際空港でアルバイトをしながら、球速を磨き、4年生になると150キロ台をマークしてプロのスカウトも注目する存在に。地元のドラゴンズとは相思相愛で、2006年、ドラフト3位で入団。はじめは先発でも登板していましたが、細身ながら威力のある速球と、縦に曲がるスライダー、フォークなどを武器に、中継ぎとして力を発揮していきました。

プロ4年目の2010年は、中継ぎで12勝を挙げ、日本新記録の59HP(ホールドポイント)をマーク。連覇を果たした翌11年も52HPを挙げ、2年連続で最優秀中継ぎ投手に輝いただけでなく、胴上げ投手にもなり、中継ぎ投手としては史上初となるセ・リーグMVPに選出。また、バント処理などフィールディングも抜群で、これも中継ぎとしては異例のゴールデングラブ賞を受賞しています。試合前の守備練習で二遊間に入り、ノックを受けていたことが実りました。鉄壁のディフェンスと投手リレーが落合野球の真骨頂でしたが、その要となったのは間違いなく浅尾だったのです。

しかし2012年以降は、肩やヒジの不調が原因で、武器でもあった最速157キロのストレートが投げられなくなり、登板数も激減。一昨年16年は、プロ入りして初めて1軍登板ゼロでシーズンを終えました。昨季は復帰を果たしたものの、登板はわずか4試合、今季は9試合(9月25日現在)にとどまっています。

このことについて、今年ソフトバンクの守護神・サファテ投手が、ツイッターで「酷使が浅尾を潰した」という主旨のツイートをし、論議を呼びましたが、浅尾本人のモットーは「常に1軍にいて、声が掛かれば全力で投げる」。チームの勝利のために、自分は必要とされているのだという責任感。だからこそ、2012年以降、肩・ヒジの不調で思い通りのピッチングができなくなり、1軍と2軍を往復するようになってからは忸怩(じくじ)たる思いでいたはず。あれだけ強かったドラゴンズも、13年以降は5年連続Bクラス。いかに浅尾の存在が大きかったかがわかります。

近年はコントロール重視のピッチングへ転向をはかり、9月の巨人戦では、坂本・重信・マギーを3者連続三振に斬って取るシーンもあり、最後まで1軍の戦力であろうとした浅尾。

中学・高校・大学・プロと、ずっと地元・愛知で通し、全国的スターへと成長していった浅尾の現役ラスト登板は、28日、ナゴヤドームで行われる阪神戦になる見込みです。12年間、お疲れ様でした。

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