大橋巨泉さんのNext Stageへの提言(2)『大学を中退し、テレビの世界へ入るきっかけ』

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ニッポン放送では、2013年10月から半年間、「ニッポン放送開局60周年記念番組『Next Stageへの提言』」を放送し、2013年10月6日の放送で、今年7月に亡くなられた大橋巨泉さんをお迎えしてNext stageへの提言をお聴きしました。
その内容を3回に分けてテキストでお届けします。
大橋巨泉さんは未来に向けて何を提言したのでしょうか。
聞き手はニッポン放送 増山さやかアナウンサーです。

■早稲田大学を中退したきっかけは科学の授業の実験

―人生のターニングポイントについて伺わせてください。大橋巨泉さんは18才でジャズの解説を行って以降、ラジオ、テレビ、11PM、ゲバゲバ90分、クイズダービーなどいろいろなことをされていますけれどもターニングポイントはいくつかありますよね?

大橋巨泉(以下巨泉) 早稲田の政治経済学部新聞学科というところに入ったんですよ、新聞学科に入ったらジャーナリズムの勉強だけすればいいと思っていたんです。1、2年は教養課程というのが今でもあると思いますがあって、僕は数学の試験がないんで早稲田入ったのに理科系からも二つくらいとらなくてはならないんですよ。

教養課程は科学取ったんです。ある日、田辺さんという教授が「今日は接着剤の作り方の実験をします」というんです。なんだろうなと思って、本を読んでいたんです。そしたら「そこの君、何を読んでいますか」というから「源氏物語です」って言ったら、「今日は科学の時間ですから、他の物を読むのはやめてください」と注意されたので、僕は「先生、お言葉を返すようですが、僕はジャーナリストになりたくて早稲田大学に入ったのであって、接着剤を作るために入ったんじゃないんです」って言ったら「ああ、そうですか、君の意見は尊重しましょう。ただ周りで一生懸命やっている生徒の邪魔になりますからこの教室から出てください」と言われたので出て行って、教室の扉を開けて、後ろ手で閉めた時に「あ、これで俺は大学卒業できないな」と思った、その瞬間。じゃあ、あと2年半、やりたいことやって出たい授業だけ出ていい友達をたくさん作ってそれでどうやって食うか考えようと考えました。

僕は大学に入ったのはとにかくアメリカへ行きたかったんですよ。その当時、アメリカ行く方法は二つしかなかった。外務省に入って外交官になって大使館員として行くか、新聞社か通信社に入って特派員として行くか、この二つしかまともな道はなかったんです。

外交官の夢はすぐ断たれたんです。外交官になるには東大とか外語大、みんな数学があるんですよ。

よし、こうなったら早稲田の新聞学科に行って新聞記者になろうと、でもそれも接着剤の実験で断たれたんです。

―それはおおきなターニングポイントですね。

巨泉 それで、ジャズ評論家の端くれになってその頃、昭和20年代から30年代にかけてアメリカに行きたい一心で英語を勉強したんです。僕は1950年、51年、52年、とアテネフランスの英語科へ通って卒業しているんです。大学は卒業していないけどアテネフランスは卒業しているんです。優等で卒業している。なので、英語は大丈夫だと、あとはもっと、米語を勉強しなくてはならない。学校で教わったのはイギリスの英語ですから。ルイ・アームストロングのレコード聴いても、シナトラを聴いても全然ちがう英語ですから。

■ノート6冊分のポップスの訳詞がテレビの世界へ入るきっかけに~11PM

巨泉 当時の進駐軍放送で毎週やっているヒットパレードの番組があったんですよ。土曜日、たばこ会社がやっていた。日本時間では日曜日なんです。「今週の第1位、テネシー・ワルツ!」とやるわけです。

後に日本で「ヒットパレード」というテレビ番組がありましたが、あの元ですよ。それでアメリカのポップス・ソングの歌詞をヒヤリングしてとって、そのレパートリーが500曲くらいになっていたんです。

―ヒヤリングして書いたんですか。

巨泉 他に方法がなかったんです。今みたいにウィキペディアで調べるということはできませんから。例えば、「テネシー・ワルツ」、日本ではワルツだけど、向こうでは「ウォルツ」ですから。それは何だろうって辞書引いて、「ワルツか」とわかる。辞書くらいしかヘルプはないんです。その耳でとったのをわら半紙に書いて、完成したらノートに写す。で、それを友達になった進駐軍の兵隊さんに見せて直してもらう。というように作った歌詞が1960年か61年頃、もう500曲くらい持っていたんです。

それを知っていた日本テレビの井原孝忠さんという後にゲバゲバなんかやる有名なプロデューサーが、当時、「ジャズパレード」っていう番組をやっていました。ヘレン・ヒギンスさんが網タイツ姿で出て、水曜日の夜は男湯が空くというくらい人気があったんです。ポップスもシャンソンもありましたけど、スポンサーからせっかくなんだから日本人にわかるように日本語の訳詞を流してくれないかと井原さんが言われたらしいんですよ。そこで僕のところに連絡があって字幕入れたいから訳詞してくれないかと言われて引き受けたんです。

15分番組でした。4曲でギャラが3,000円だったかな? 当時、銀座のレストランでカレーライスが70円でしたので結構な金額ですよ。

それから始まって、草笛光子さんがやっていた「光子の部屋」を井原さんがやっていて、今度はジャズの曲を字幕ではなくて歌える訳詞もできるかって聞かれて「できるよ」って答えたけど、それがターニングポイントになってテレビテレビの世界に入って行ったんです。書き溜めた大学ノート6冊くらいあったかな、ジャズやポップスの歌詞が僕をテレビの世界に入れたんですよ。

―大学ノート6冊分がターニングポイントになったんですね。

巨泉 そこからテレビの音楽番組の構成とか、訳詞をしていたら、11PMという番組が1965年の11月に始まって、その前の音楽番組で知り合っていた横田くんというディレクターが電話してきて1週間のうちの1日だけ担当することになったので見てくれるっていうから、最初月曜日の番組を観たんです。「どお?」って言うから「深夜にしちゃあ固いなあ」って言ったのね、「深夜でなくてはできないことやったら?」と。

当時、テレビで麻雀や競馬の解説をしりことはできませんでした。主婦連からクレームがきちゃう。でもそれが放送が11時台だということで免罪符になったんです。そういうのをやったらって言ったら。いねえ、っていうことになったんです。

さあ、誰にやらせるかといったら、僕は三橋達也さん、高嶋忠夫さん、藤村有弘さん、こういう人たちを候補に出したんですよ。僕は作家ですから。でも、みんな断られるわけですよ。そりゃそうですよ、月曜日の夜11時半から15分間生で毎週出てくれますかって言ったって映画スターが出るわけないじゃないですか。その頃は今と違って芸能が出来る局アナなんていなかったんですよ。

局アナはいない、どんどん日にちは迫って来てあと1週間になってしまった。そしたら横田君が「もう来週で間に合わないから巨泉、自分でやったらどうだ」って言うんですよ。そしたら、「オレ本書かなくて済むけど、本代と出演代と両方くれるか」って聞いたら、両方伝票切るよって答えたんで「巨泉のなんでもコーナー」という10分から15分の遊びのコーナーができて、それが僕が出演者としてテレビに入るターニングポイントだったんです。