第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日

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【大人のMusic Calendar】

全日本フォークジャンボリーは。

1969年8月9日夕方から翌朝まで、岐阜県中津川で開催された第1回全日本フォークジャンボリーは、現地の中津川労音と音楽舎の前身高石事務所の共同制作で行われた。ウッドストックより6日前のことだった。

第2回は1970年8月8日から9日にかけて行われた。主催者の中津川労音と東海地域を統括していた中部労音は、文字通りの“全日本”フォークジャンボリーへと拡げようと、東京在住のフォーク・ミュージシャンへの呼び込みを試みた。そこに居合わせたのが私だった。肩書きは実行委員、しかし実態は口頭の辞令、つじつま合わせみたいなものだった。

その年夏、私は小室等と六文銭、カルメン・マキ、藤原豊(カルメン・マキのバックでのギター演奏も兼任)とともに中津川へと向かった。現地は降り出した雨のせいで、震えるような寒さと湿気に包まれていた。身体も楽器も何よりも屋根を求めていた。そうした中集まった観客は8,000人。いくつかの小さなトラブルはあったものの、コンサートは無事に終了した。
全日本フォークジャンボリーは、マスコミから「日本版ウッドストック」と評された。それが翌年のコンサートの不幸の一因になるのだが。

第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日

1971年8月7日、8日に「第3回全日本フォークジャンボリー」は開催された。2日目の昼過ぎ、前年に引き続きライブ録音を一手に引き受けていたキングレコードの三浦光紀さんとすれ違う。メインとサブの3か所の録音統括者だった。「(第2)サブ・ステージが面白いぞ」と言い残しながら、急ぎ足で去って行った。

第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日

第1サブ・ステージで起こったこと

その日、第1サブ・ステージは順調に進行していた。高田渡が歌い始めるとステージ脇から野次が飛んだ。その野次を飛ばした吉田拓郎に向かって、高田渡は「殺してやる」と応え、ステージの上も観客席も笑いに包まれた。
次は拓郎の出番だった。広島フォーク村以来の仲間、ギターとパーカッションによる2人編成のミニバンド(バンド名)をバックに、「メインに負けないぞ!」と一声発して歌い始めた。しかしすぐにPAトラブルが発生しマイクは使用不可になってしまった。すると拓郎は、この日の第1サブ・ステージ最後の出演グループ六文銭を呼び込んでから、肉声で「人間なんて」を歌い始めた。観客も「人間なんて」と唱和する。ついには私たちスタッフまでがステージ上で唱和することになった。

拓郎は聴衆の歌声をバックに、いつものシャウトを始めた。その様子をメイン・ステージと入り口を往復していた観客が知る。結果、200人ほどの収納スペースに1,000人ほどが押し寄せてきた。拓郎はここがメイン・ステージ、あっちがサブ・ステージだと語ると、観客のリクエストに応えて、「人間なんて」を再び歌い始めたが、声はとっくにかれていた。

小室等は歌いながら演奏しながら、どうしたらこの場をおさめられるか考えていたという。
ステージ上の思惑が一致した。歌い出してから、2時間経った頃だ。拓郎は「メインへ行こう」とかすれた声で言った。小室も続けて言った 「メインへ行こう」。そして観客はメイン・ステージへと向かった。

後日私はなぜメインへと言ったのかを小室等に聞いた。小室等はこう答えた。観客に怪我人が出るかもしれない、拓郎の状態もぎりぎりだった。サブ・ステージは終わりにするしかない。私もステージ上にいたので良くわかる。本当にぎりぎりの判断だった。

第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日

71年の第1サブステージ。小室さんのギターネックの上にいるのが若き日の著者

メイン・ステージの占拠

1971年の中津川はすべてが過剰だった。観客たちの疲労、不眠、空腹、そして興奮は事件を待っていたのかもしれない。2万人近くの観客を擁したメイン・ステージには、夜になってから一層怒号が飛び始めていた。「帰れ!」コールがあちこちで起こった。 一部の観客によるメイン・ステージの占拠事件は、午後10時ごろに起こった。安田南+鈴木勲カルテットの演奏中、「ジャンボリー粉砕」を叫びながらステージ上に観客が乱入した。そして二度と演奏が行われることはなかった。

昨年久しぶりにG.Gこと上條俊一郎さんに会った。G.Gは第3回全日本フォークジャンボリーで、メイン・ステージ進行の補佐をしていた。安田南の2つ後の出番が山下洋輔トリオで、彼らをステージに出せば騒ぎはおさめられると思っていたという。しかし安田南の「文句あるんなら上がってらっしゃいよ」という発言がきっかけとなり、2~30人がステージに駆け上り安田南からマイクを奪った。延々と朝までの討論となった、それが悔しいのだと言った。

第3回全日本フォークジャンボリーは、時代の分かれ目を思いがけずに演出してしまった。別の視点から見れば、ここから日本のポップス、ロックの新たな1ページが始まったとも言える。一方、主催者、中津川労音のリーダーだった笠木透さんはその後、自ら作ったフォークソングのグループを率い、全国各地で小さなコンサートを重ねて行った。全日本フォークジャンボリーに参加した音楽家も観客も、とうに還暦を超えてしまった。

第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日

「'71全日本フォークジャンボリー」ジャケット写真撮影協力:牧村憲一&アンディ塩野

(文中、音楽家の方の敬称を略させていただきました。資料協力アンディ塩野さん)

【著者】牧村憲一(まきむら・けんいち):1946年、東京都渋谷区生まれ。音楽プロデューサー、加藤和彦、大貫妙子、竹内まりや、フリッパーズ・ギターら数々のアーティストの歴史的名盤の制作・宣伝を手がけ、現在も活躍中。InterFM897『music is music』レギュラー出演中。著書に『「ヒットソング」の作りかた』(NHK出版)、『渋谷音楽図鑑』(太田出版、藤井丈司、柴那典との共著)がある。
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