三浦光紀とBellwood

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【大人のMusic Calendar】

1972年に発足したBellwoodレコードは、今年で46年目を迎えました。世代が変わり親から子の時代になった今も、このレーベルは多くの人によって愛され支持され続けています。若くして設立者となり、制作責任者でもあった三浦光紀さんが、本日無事に74歳の誕生日を迎えました。ここまでの道のりはまさに波乱万丈だったと思いますが、ご本人はきっとそうだったっけと言うでしょうね。

最初の出会いは、三浦さんが20歳、僕が18歳の時でした。早稲田大学グリークラブの先輩後輩として3年、それから今日まで半世紀に渡るつきあいとなりました。その年月は、称賛と心配の繰り返しでした。
これまで三浦さんが成した数々の起業、その中にあってBellwoodレコード設立にかなうものはありません。今回は設立に至るまでのいくつかのエピソードを書くこととします。

【小室等との出会い】
三浦さんがキングレコード入社後に配属されたのは文芸部教養課でした。Bellwoodの発足2年前の1970年、小室等、小林雄二のフォークギター教則本レコーディングを企画し担当します。僕は偶然そのレコーディング現場に居合わせることができ、二人の演奏技術の高さ、歌の力に驚き、フォークソングの持つ深さの一端を知ることとなります。この教則本のレコーディングが後のBellwood設立への一歩になるとは、三浦さんも小室さんも含めて誰にも予想できなかったことです。

三浦光紀とBellwood

その頃僕は、キングレコードのフォークソング関連のコンサートの手伝いをしてました。ですので三浦さんとは、頻繁に顔を合わせていました。そうしたある日、中部労音、中津川労音からの依頼で、東京の実行委員を引き受けることになった第2回全日本フォークジャンボリーのことを三浦さんに伝えました。東京側からカルメン・マキ、藤原豊、三浦さんが担当していた小室さん(小室等と六文銭)に参加してもらうつもりでいるのだと話しました。三浦さんから間髪を入れず、フォークジャンボリーの録音は可能なのか、是非録音したいと返ってきたのです。

【全日本フォークジャンボリー】
前年1969年は、主催者側でもあった音楽舎と同列会社URCが録音したこと、今年の出演予定者は昨年に比して多く、所属レコード会社問題もあるので難しいのではないかと答えると、関連レコード会社には話をすると言うのです。調整に時間は要しましたが、キングレコードが各社を代表して録ることになりました。しかし肝心のキングレコードは、野外での録音機材の使用許諾は出しませんでした。にもかかわらず、数千万円? の機材を無断で持ち出し決行してしまったのです。もちろん前代未聞の事件になりましたが、ともかく素晴らしい記録が残ったのです。

全日本フォークジャンボリーの観客動員数は1969年の1回目が2,000人、翌年1970年の2回目が8,000人、この時の録音をもとに各社からリリースされた実況盤の成果もあって3回目はおおよそ20,000人となりました。
最後になった1971年の第3回全日本フォークジャンボリーでも、三浦さんは前年に引き続き録音を担当しました。会場ですれ違うと「サブ・ステージが面白いよ」と、メイン・ステージより風都市が取り仕切っていた第2サブ・ステージに気がいっている様子でした。そこには、はっぴいえんどを筆頭に風都市関連のミュージシャンたちが一堂に会していたのです。

【高田渡のアルバム制作】
日本のフォークソングを扱うレーベルとして先行し活動していたのが、前述したURCレコードです。三浦さんはURCレコードと積極的に交流し、望んでいた高田渡のソロアルバムの制作を始めます。そうしたことが重なってきた時、制作部内からあからさまに異議を唱えるスタッフが出てきました。
それはフォークソングは教養課の仕事ではない、童謡の制作に留まれというような言い分でした。それまで無視はされることはあったとしても、妨害されるということはなかったでしょう。しかし従来の芸能界の枠内にいたそのスタッフにとっては、三浦さんが推進した新しい音楽は理解できない、脅威だったのではないでしょうか。
三浦さんはその異議申し立てにこう応えました。「フォークソングは現代の童謡です」、この時の対応は伝説となっています。

【プロデューサーの時代】
三浦さんは未だに自分はプロデューサーではなかったと言い張りますが、日本のプロデューサー時代の始まりにふさわしい存在であったことは間違いないことです。
Bellwoodという新しいレコード会社で打ち出した数々の指針は、アーティストに最良の音楽環境を与えたい、アート・ワークを音楽と同等に扱う、それまでのレコード会社の慣例を破って外部のアート・ディレクター、デザイナーを起用することなどでした。さらにレコーディング環境に配慮し、レコーディング・エンジニアを重視したことです。フリー・エンジニアだった吉野金次さんとの協働からも、数々の名作が生まれました。

三浦光紀とBellwood

日本のポップス、ロック史上の金字塔となったはっぴいえんどの担当ディレクターとしてセカンド・アルバム「風街ろまん」(URC)に制作参加し、事実上解散状態だったはっぴいえんどを促し、LA録音のサード・アルバムを制作。同時に大瀧詠一、細野晴臣のソロ制作も企て、あがた森魚、はちみつぱい等、数々の傑作アルバムを生み出しました。
Bellwood後のフォノグラム、ジャパンレコード、徳間ジャパンレコードでの制作を書くと膨大な量になります。続きは三浦さんの75歳の誕生日にまた書かせてください。三浦さん、無事に迎えたお誕生日おめでとうございます。(文中敬称略)

三浦光紀とBellwood
写真提供:牧村憲一
三浦光紀とBellwood
Bellwood 45th Anniversary>

【著者】牧村憲一(まきむら・けんいち):1946年、東京都渋谷区生まれ。音楽プロデューサー、加藤和彦、大貫妙子、竹内まりや、フリッパーズ・ギターら数々のアーティストの歴史的名盤の制作・宣伝を手がけ、現在も活躍中。InterFM897『music is music』レギュラー出演中。著書に『「ヒットソング」の作りかた』(NHK出版)、『渋谷音楽図鑑』(太田出版、藤井丈司、柴那典との共著)がある。
三浦光紀とBellwood

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