1242 ニッポン放送
つかちゃんコラム
塚越孝
塚越孝
column
9月 2日

明日は、名人・圓生の命日だ。
明治33年の9月3日に生まれて、誕生日に亡くなった。
西暦にすると1900年。
丁度、この年の8月、不世出の名人・圓朝が世を去っている。
本人は、生まれ変わったあたくしが、
ってな意識がどこかにあったようで、昭和天皇に招かれ、
御前落語を演ったりして、絶頂のうちに逝った。
ただ、満79歳の誕生日という劇的な死なのに、
なんと間の悪いことにパンダが、何歳だったか、
どうでもいいが、同じ日にくたばったため大騒ぎ。
新聞各紙は、圓生の訃報より遥かに大きな見出しで報じた。
新聞は全15段、扱いは、まさに段違いで、落語ファンとして、
話芸を志す駆け出しのアナウンサーとして、
ひどく悲しかったのを今でも鮮明に憶えている。

9月21日は、圓生よりも十(とお)上で、
近頃、仮名ふっとかないと、平気で「じゅう上」、
中には、「じゅっこ上」などと平気で発音する大馬鹿がいるので、
弱りますが、明治23年の9月10日に生まれ、
昭和49年に没した天衣無縫の名人・志ん生の命日となる。
この日、大学の帰り道、志ん生の新刊を買って読みながら、
隣の人の読んでる夕刊でその死を知った。
もう、とうに、寄席には出なくなっていて、
それでも、生きてるだけでいいと年配のファンが言うのを聴き、
ふわふわっとずっと居るだろうと信じていたので、
ひどく気落ちした。

わたくしは、オールナイトニッポンでラジオに目覚め、
志ん生が専属だったニッポン放送に憧れ、入社。
で、今、フジテレビという、志ん生だったら
「蟹が真っつぐ歩いてるよぅ」ってな表現の喋り手人生、
しかし、ここでまた、新たな志ん生と出会うことになるとは。
もう、無いとばっかし思っていたが。

志ん生は、昭和31年に「お直し」という女郎買いの噺で
芸術祭賞をとり、36年、読売巨人軍の優勝祝賀会の最中、
ろくに耳を傾けない無粋な連中の前で、脳溢血で倒れる間が最高潮、
この時期は、ニッポン放送専属の真っ只中。
ごく一部、権利関係の複雑なものを除いて、
その殆どが、レコード、CD化されている。

ところが、民放の老舗、朝日放送にまだあった。
大阪は中之島のABCホールで34年に記録とあるので、
志ん生が最高の時期だ。
演じたのは、自殺志願の女を止めた猟師が、
逆に自分の首を吊っちまうという「ふたなり」。

江戸の落語家は、漫才中心の大劇場が主流の上方で、蹴られる、
つまり、全く受けないのでは、という危惧を抱いて
下阪することが多いが、志ん生は、大袈裟にならず、
かといって、人情噺でしんみりさせるわけでもなく、
淡々と語り、しまいには爆笑を誘う。

この一席だけでも価値ありのお宝だが、
東京から出かけた文楽、痴楽、そしてご当地の名人、
上手、人間国宝・米朝まで網羅したCDブックが、
読み応えある解説書とともに、朝日放送創立55周年、
角川グループ創立60周年と銘打って出た。
今日の上方落語の隆盛、むべなるかな。



 
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