明日は、名人・圓生の命日だ。
明治33年の9月3日に生まれて、誕生日に亡くなった。
西暦にすると1900年。
丁度、この年の8月、不世出の名人・圓朝が世を去っている。
本人は、生まれ変わったあたくしが、
ってな意識がどこかにあったようで、昭和天皇に招かれ、
御前落語を演ったりして、絶頂のうちに逝った。
ただ、満79歳の誕生日という劇的な死なのに、
なんと間の悪いことにパンダが、何歳だったか、
どうでもいいが、同じ日にくたばったため大騒ぎ。
新聞各紙は、圓生の訃報より遥かに大きな見出しで報じた。
新聞は全15段、扱いは、まさに段違いで、落語ファンとして、
話芸を志す駆け出しのアナウンサーとして、
ひどく悲しかったのを今でも鮮明に憶えている。
9月21日は、圓生よりも十(とお)上で、
近頃、仮名ふっとかないと、平気で「じゅう上」、
中には、「じゅっこ上」などと平気で発音する大馬鹿がいるので、
弱りますが、明治23年の9月10日に生まれ、
昭和49年に没した天衣無縫の名人・志ん生の命日となる。
この日、大学の帰り道、志ん生の新刊を買って読みながら、
隣の人の読んでる夕刊でその死を知った。
もう、とうに、寄席には出なくなっていて、
それでも、生きてるだけでいいと年配のファンが言うのを聴き、
ふわふわっとずっと居るだろうと信じていたので、
ひどく気落ちした。
わたくしは、オールナイトニッポンでラジオに目覚め、
志ん生が専属だったニッポン放送に憧れ、入社。
で、今、フジテレビという、志ん生だったら
「蟹が真っつぐ歩いてるよぅ」ってな表現の喋り手人生、
しかし、ここでまた、新たな志ん生と出会うことになるとは。
もう、無いとばっかし思っていたが。
志ん生は、昭和31年に「お直し」という女郎買いの噺で
芸術祭賞をとり、36年、読売巨人軍の優勝祝賀会の最中、
ろくに耳を傾けない無粋な連中の前で、脳溢血で倒れる間が最高潮、
この時期は、ニッポン放送専属の真っ只中。
ごく一部、権利関係の複雑なものを除いて、
その殆どが、レコード、CD化されている。
ところが、民放の老舗、朝日放送にまだあった。
大阪は中之島のABCホールで34年に記録とあるので、
志ん生が最高の時期だ。
演じたのは、自殺志願の女を止めた猟師が、
逆に自分の首を吊っちまうという「ふたなり」。
江戸の落語家は、漫才中心の大劇場が主流の上方で、蹴られる、
つまり、全く受けないのでは、という危惧を抱いて
下阪することが多いが、志ん生は、大袈裟にならず、
かといって、人情噺でしんみりさせるわけでもなく、
淡々と語り、しまいには爆笑を誘う。
この一席だけでも価値ありのお宝だが、
東京から出かけた文楽、痴楽、そしてご当地の名人、
上手、人間国宝・米朝まで網羅したCDブックが、
読み応えある解説書とともに、朝日放送創立55周年、
角川グループ創立60周年と銘打って出た。
今日の上方落語の隆盛、むべなるかな。
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