2023年2月24日
笑瓶さんのこと
スマホでネットニュースをなんとなく眺めていて飛び込んで来た笑福亭笑瓶さんの訃報のニュース。
にわかに信じ難い思いはありましたがワイドショーにも速報が入り始め認めざるを得ませんでした。
とにもかくにも師匠の鶴瓶さんにお悔やみのショートメールを送ろうとしたのですが、気が動転していて電話をかけてしまいました。
あわてて切ろうとしたのですが画面が変わってしまい、オロオロしているうちに留守電につながってしまいました。
このまま切ってしまうのも失礼と思い「ショートメールを送ろうとしたら間違えました。大変な時に申し訳ありません。笑瓶さんの事を今知りました。なんと言っていいのかわかりません。すいません!」とここまで一気にしゃべったものの名乗っていないことに気がつき「あっ上柳でした」と付け加え切りました。
するとすぐに鶴瓶さんからコールバックがありました。
「あっ先ほどはすいませんでした!驚いてしまって」と言うと鶴瓶さんは「師匠より先に逝ったらあかんなぁ」と呟くように一言。
胸に熱いものがこみあげてきて私はもう言葉を発することが出来ませんでした。
そのあと午前中に病院に行って会えたんやという話をされましたが、それは「日曜日のそれ」内でご自身で語られることと思います。
笑瓶さんはラジオ大坂の「ぬかるみの世界」で鶴瓶さんのトークに魅了され大学卒業後1981年に弟子入りし、鶴瓶さんの大人気バラエティー番組の毎日放送「突然ガバチョ」などであっという間に人気者になっていきます。
私も同じ年にアナウンサーでニッポン放送に潜り込んだはいいもののこんなはずではなかったの毎日で、どうしたものかと夜な夜な全国のラジオを聴きまくるという日々を送っていました。
その中で偶然たどり着いたのが「ぬかるみの世界」で、鶴瓶さんと新野新先生のやり取りを雑音の中聴きながら「こんなラジオがあるんだ」と少し嫌になっていたラジオに希望の光を見出したものでした。
またその頃担し始めたANN月曜2部に関西のリスナーから、鶴瓶さんが好きならこんなTV番組もあるよと「突然ガバチョ」のビデオが送られてきました。
実にラジオ的な作りのこの番組に惹かれ、また中島みゆきさんの構成作家のポチこと寺崎要さんが「突然~」の作家でもあったというご縁で当時千里にあったMBSに収録の見学にも行きました。
鶴瓶さんと言う方を中心に笑瓶さんと私はごくごく近くで20代を過ごしていた訳です。
仕事でご一緒したのは80年代の半ば、正月の深夜の4時間の生放送でした。
私はスタジオいて笑瓶さんは中継隊として体を張った爆笑リポートを何回もして下さいました。
たった1回だけの経験でしたが鶴瓶さんの一門会の楽屋などでお会いするたびに「あの時はホンマ面白かったですなぁ」という話になったものです。
午前5時に番組が終わると「この後大阪で仕事ですわ」と言うので新幹線の時間まで仮眠取ったらどうですかと、本当は社員しか入れないであろう宿直室にご案内したことを何故だか急に思い出しました。
ご存じのように鶴瓶さんの公式HPに載った追悼文は「僕より先に逝くとは思いませんでした。すごくええ顔して旅立って行きました。最期に顔見れてよかったです。お疲れ様でした」と結ばれていました。
病院内はまだまだコロナに関しては厳しい体制が取られていると思いますが、対面が叶ったことは本当に良かったと思いました。
謹んでお悔やみを申し上げます。
にわかに信じ難い思いはありましたがワイドショーにも速報が入り始め認めざるを得ませんでした。
とにもかくにも師匠の鶴瓶さんにお悔やみのショートメールを送ろうとしたのですが、気が動転していて電話をかけてしまいました。
あわてて切ろうとしたのですが画面が変わってしまい、オロオロしているうちに留守電につながってしまいました。
このまま切ってしまうのも失礼と思い「ショートメールを送ろうとしたら間違えました。大変な時に申し訳ありません。笑瓶さんの事を今知りました。なんと言っていいのかわかりません。すいません!」とここまで一気にしゃべったものの名乗っていないことに気がつき「あっ上柳でした」と付け加え切りました。
するとすぐに鶴瓶さんからコールバックがありました。
「あっ先ほどはすいませんでした!驚いてしまって」と言うと鶴瓶さんは「師匠より先に逝ったらあかんなぁ」と呟くように一言。
胸に熱いものがこみあげてきて私はもう言葉を発することが出来ませんでした。
そのあと午前中に病院に行って会えたんやという話をされましたが、それは「日曜日のそれ」内でご自身で語られることと思います。
笑瓶さんはラジオ大坂の「ぬかるみの世界」で鶴瓶さんのトークに魅了され大学卒業後1981年に弟子入りし、鶴瓶さんの大人気バラエティー番組の毎日放送「突然ガバチョ」などであっという間に人気者になっていきます。
私も同じ年にアナウンサーでニッポン放送に潜り込んだはいいもののこんなはずではなかったの毎日で、どうしたものかと夜な夜な全国のラジオを聴きまくるという日々を送っていました。
その中で偶然たどり着いたのが「ぬかるみの世界」で、鶴瓶さんと新野新先生のやり取りを雑音の中聴きながら「こんなラジオがあるんだ」と少し嫌になっていたラジオに希望の光を見出したものでした。
またその頃担し始めたANN月曜2部に関西のリスナーから、鶴瓶さんが好きならこんなTV番組もあるよと「突然ガバチョ」のビデオが送られてきました。
実にラジオ的な作りのこの番組に惹かれ、また中島みゆきさんの構成作家のポチこと寺崎要さんが「突然~」の作家でもあったというご縁で当時千里にあったMBSに収録の見学にも行きました。
鶴瓶さんと言う方を中心に笑瓶さんと私はごくごく近くで20代を過ごしていた訳です。
仕事でご一緒したのは80年代の半ば、正月の深夜の4時間の生放送でした。
私はスタジオいて笑瓶さんは中継隊として体を張った爆笑リポートを何回もして下さいました。
たった1回だけの経験でしたが鶴瓶さんの一門会の楽屋などでお会いするたびに「あの時はホンマ面白かったですなぁ」という話になったものです。
午前5時に番組が終わると「この後大阪で仕事ですわ」と言うので新幹線の時間まで仮眠取ったらどうですかと、本当は社員しか入れないであろう宿直室にご案内したことを何故だか急に思い出しました。
ご存じのように鶴瓶さんの公式HPに載った追悼文は「僕より先に逝くとは思いませんでした。すごくええ顔して旅立って行きました。最期に顔見れてよかったです。お疲れ様でした」と結ばれていました。
病院内はまだまだコロナに関しては厳しい体制が取られていると思いますが、対面が叶ったことは本当に良かったと思いました。
謹んでお悔やみを申し上げます。